ちまたの文章術などでは、
「言いたいことをどう伝えるか」に主眼が置かれる。
その文章と物語は違う。
物語は「伝える」ことが目的ではない。
「一緒に楽しむ」ことが目的である。
ちまたの文章術が扱う文章とは、
依頼の手紙やメール、契約書、
反省文謝罪文などの、
実用書類である。
なにか言いたいこと、伝えるべきことがすでにあり、
それを文章で伝えることが目的だ。
文章は目的地に連れて行くための手段である。
タクシーで行くか新幹線で行くか、
文章で行くか、
の違いでしかない。
ちまたの文章術は、だから、
「安全運転の仕方」「目的地に早く着くには」
なんてことと、大差ないことをしている。
物語はそれとは異なる。
ある結論へ向かって文章を進めることは目的ではない。
「その物語を楽しむ」ことが目的である。
その物語の発生に興味を持ち、
その物語の展開に夢中になり、
その物語の結末に、意味や意義を感じる。
その全体を楽しむことである。
もちろん、「うわーたのしいー」だけでなく、
感慨深かったり、
あまりにも悲しかったり、
恐ろしかったり、
不気味だったり、
痛快だったり、
苦みをあじわったり、
おかしみがあったり、
人生を立ち止まって考えたりなどの、
物語形式でしか味わえない、
広義の楽しみを指している。
だから物語は嗜好品である。
他人の嗜好にとやかくいうのは野暮だし、
強制するのは自由権の侵害だ。
物語を「伝える」ものだと考えると、
効率=伝わったこと/伝えたいこと
コスパ=伝えたこと/かかったコスト
で測定できるということで、
それが唯一の価値になるということだ。
そうではない。
もし「伝える」ものだとすると、
テーマを三行で書き、渡した方が、
よっぽど伝わる。
物語はおいしい食事とおなじだ。
栄養素に分解して補給すればいいよね、
と考えるのがコスパ主義だ。
そうじゃなくて、
食べる前や食べてる途中や終わった後の余韻まで、
なにもかも楽しむのがおいしい食事である。
「栄養を補給する」だけだったら、
カロリーメイトやウィダーインゼリーで一生暮らしてれば良い。
我々が食事を楽しみにするのは、
それが楽しいからである。
あなたはあなたの物語を「伝えたい」のか?
「伝われば」いいのか?
それは物語の書き手として三流だ。
あなたはあなたの物語を、
「楽しんで」もらうことが動機になるべきだ。
楽しむとは、喜びだけではない。
悲しみも怒りも不安も、
ネガティブもポジティブも、
色々なパターンの、「物語にしかできない感情」
のことをいう。
あえていうなら、「愉しむ」だろうか。
味わうとか、鑑賞とか言い換えても良い。
「伝える」ことを目的にした文章は、
カロリーメイトと同じである。
燃焼効率のいいものが正義だ。
「愉しむ」ことを目的とした文章は、
まったく異なる質である。
「どういう楽しみなのか?」
から考えるわけだからね。
もちろん、ある程度の栄養素は確保しないと、
満足感はないだろう。
(だからペラペラのエンタメは、
スナック菓子にたとえられる。
人生に対する栄養素が足りないからだ)
だけどあなたはカロリーメイトをつくるのではない。
食事のデートをプロデュースすることに似ている。
どう楽しませるんだ?
そして、ほんとうの楽しみは、
「楽しませてやっている」では成立しない。
「一緒に楽しんでいる」が、
一番楽しいんだぜ。
作者も観客も、
一緒に笑ったり、
一緒に悲しんだり、
一緒に怒ったり、
一緒に不安になったり、
一緒にほっとしたりすることが、
物語の目的である。
そう、
喫茶店で女子高生たちが「わかるー」
と言っていることと、
本質的には同じである。
それのプロフェッショナルなマス版、
架空の物語で、
みんなで一緒に楽しむことが、
物語の目的である。
伝える?
そんなこというやつは、
物語を何もわかってないぞ。
もちろん伝わらない文章は、
楽しむ以前の問題だから、
伝わる文章は、最低限の義務だ。
50m走や腕立てがプロ野球選手のチェックに使われるような、
最低限チェック項目みたいなもんだ。
伝わる文章が書けることが目的なのは、
野球選手になりたいのに50m走れないのと同じくらいの話をしてるのだ。
2022年02月25日
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