驚くほど、自分は何も観察していないとわかるぞ。
ある光景の写真を撮ろう。
それを見ずに記憶だけで、
それが大体どんなものか、
文章で表現したまえ。
仮に犬だったとする。
どんな犬か?毛色は?
鼻や瞳は何色?
首輪は?
どこを歩いてた?
飼い主はどんな人?服は?
背景の看板に何が書いてあった?
道路標識はなに?
背景の家は何階建?
光線の向きは?
何時ごろ?
そんな細かいこと覚えてないよね。
写真で答え合わせできるね。
ああ、自分はいかに何も見てなかったか、
記憶と写真のディテールを見比べるとわかる。
絵を描いてみよう。
ある風景の絵だ。
写真を見て絵を描くな。
肉眼とキャンバスだけで描いてみなさい。
そしてその風景を、最後に写真に撮りなさい。
驚くほど、ディテールを省略して絵を描いていることが、
写真と見比べるとわかるはずだ。
絵は、
対象を理解していないと描けない。
犬の毛を描きたかったら、
毛の流れを分からないと描けない。
絵を描くことは、理解することが前提である。
つまり、絵を描くことは理解することである。
絵が下手な人は、
手が不器用以前に、観察ができない人である。
目は大量の情報を得るが、
脳の時点でそれらは取捨選択される。
いらないものは捨てられ、
重要なものだけが残される。
このエクササイズは、
いかに脳がいらないものを捨てて、
いるものだけを残してるかを、
視覚的ディテールで検証する方法である。
あるいは、自分の観察力のレベルを、
自覚するためのものでもある。
観察しよう。
世界はどうなっているか。
そして、
そこから、大事な何かを残して、
その他を全部捨てる練習もしよう。
記憶の圧縮もするのだ。
本質的なところだけを残すには、
どうすればいいかを考えるのだ。
見る目を鍛えないと、
同じことを経験しても、
脳がほとんどを捨てて、
最初にあなたが描いた犬の絵みたいになるだろう。
その観察で、
本質は見抜けたか?
見抜けてないなら、下手くそな絵のままで、
そんな程度のシナリオしか書けないということだ。
2022年02月27日
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