2022年03月07日

「つづき」はつづきだけじゃない

展開は難しい。すぐに息がつづかなくなる。

しかし「つづき」は純粋な「つづき」ではない、
と考えると分かりやすくなる。


よし、つづきを書こう。

そうするとダメになる。
つづきを書くことだけを考えると、
これまでに提示した情報だけをこねることになり、
ストーリーが痩せていく。

大体、これまで提示したものだけで鍋に投入して、
大体炒め終わったから、
いまつづきが書けなくなってるわけだ。

なのに無理矢理まだ炒めると、焦げ付くよね。
焦げ付きを予測するから、
今書けずに、
そして無理矢理「つづき」を書けないか、
と足が止まるのだと思う。

それは、
「つづきを書こう」と思ってしまっているからではないか?


すなわち、
「つづき」は、直結した「つづき」だけではない、
ということである。

「はじまり」もあれば、「おわり」もあり、
「つづき」もあるということだ。
そして「はじまり」で出来たものは、
これまでのものに「まざる」ときがある。

すなわち。

これまで描いてきた場所で、
何か新しいことがはじまってもいいし、
これまで描いていない場所で、
何かがはじまってもいいし、
これまで描いてきた何かが、
終わりを迎えるところを描いてもいい。

そして、複数の線が、
「まざる」ところを描いてもいい。
(プロットの交差。
遅刻しそうだが朝飯は食いたい、
パンを咥えたまま走る女子高生と、
本日転校初日のため道に不案内な不良が、
角でぶつかるのは、
「まざる」交差点である)


つまり、
純粋な「つづき」を書くべきか、
「つづき」ではないが、続きを書くべきか、
という選択から、
そもそも入るべきなのだ。

シーンの途中で昨日おわっていれば、
今日はその直結の続きを書くことになるだろうが、
昨日シーンの終わりで終わっていれば、
「次のシーンは別のところから始める」
はずである。
このとき、
前のシーンを受けた「つづき」を書くのか、
それとは異なる続きを書くのかは、
選択肢がある、ということである。


そして「つづき」を書くにしても、
直結、なにかをはじめる、なにかを終わらせる、
なにかとまざる、
という選択肢があることを忘れてはならない。

直結が書きづらいのなら、
もう材料が足りず、焦げ付き間近と気付こう。
(それでも無理矢理書き続けると、
話す話題もなくなり、ただ空を見るとか、
どうでもいい間延びがやってくるに違いない。
これは危険信号である。
話題がなくて話題を探している、
あの嫌な間に相当する)


つづきを続けなくて良い。
はじめたり、おわらせたりするとよい。
まぜてもよい。とりわけてもよい。

今何をするべきか、
何をすると一番面白いか、
全体の流れはどこへ向かっているか、
そうしたことをまず考えれば、
次どこから始めればいいか、
思いつくだろう。

これは全体のファーストシーンの、
「どこから語り始めるかな」
を見つけることにも似ている。
posted by おおおかとしひこ at 01:02| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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