展開は難しい。すぐに息がつづかなくなる。
しかし「つづき」は純粋な「つづき」ではない、
と考えると分かりやすくなる。
よし、つづきを書こう。
そうするとダメになる。
つづきを書くことだけを考えると、
これまでに提示した情報だけをこねることになり、
ストーリーが痩せていく。
大体、これまで提示したものだけで鍋に投入して、
大体炒め終わったから、
いまつづきが書けなくなってるわけだ。
なのに無理矢理まだ炒めると、焦げ付くよね。
焦げ付きを予測するから、
今書けずに、
そして無理矢理「つづき」を書けないか、
と足が止まるのだと思う。
それは、
「つづきを書こう」と思ってしまっているからではないか?
すなわち、
「つづき」は、直結した「つづき」だけではない、
ということである。
「はじまり」もあれば、「おわり」もあり、
「つづき」もあるということだ。
そして「はじまり」で出来たものは、
これまでのものに「まざる」ときがある。
すなわち。
これまで描いてきた場所で、
何か新しいことがはじまってもいいし、
これまで描いていない場所で、
何かがはじまってもいいし、
これまで描いてきた何かが、
終わりを迎えるところを描いてもいい。
そして、複数の線が、
「まざる」ところを描いてもいい。
(プロットの交差。
遅刻しそうだが朝飯は食いたい、
パンを咥えたまま走る女子高生と、
本日転校初日のため道に不案内な不良が、
角でぶつかるのは、
「まざる」交差点である)
つまり、
純粋な「つづき」を書くべきか、
「つづき」ではないが、続きを書くべきか、
という選択から、
そもそも入るべきなのだ。
シーンの途中で昨日おわっていれば、
今日はその直結の続きを書くことになるだろうが、
昨日シーンの終わりで終わっていれば、
「次のシーンは別のところから始める」
はずである。
このとき、
前のシーンを受けた「つづき」を書くのか、
それとは異なる続きを書くのかは、
選択肢がある、ということである。
そして「つづき」を書くにしても、
直結、なにかをはじめる、なにかを終わらせる、
なにかとまざる、
という選択肢があることを忘れてはならない。
直結が書きづらいのなら、
もう材料が足りず、焦げ付き間近と気付こう。
(それでも無理矢理書き続けると、
話す話題もなくなり、ただ空を見るとか、
どうでもいい間延びがやってくるに違いない。
これは危険信号である。
話題がなくて話題を探している、
あの嫌な間に相当する)
つづきを続けなくて良い。
はじめたり、おわらせたりするとよい。
まぜてもよい。とりわけてもよい。
今何をするべきか、
何をすると一番面白いか、
全体の流れはどこへ向かっているか、
そうしたことをまず考えれば、
次どこから始めればいいか、
思いつくだろう。
これは全体のファーストシーンの、
「どこから語り始めるかな」
を見つけることにも似ている。
2022年03月07日
この記事へのコメント
コメントを書く