少し前から思ってることだけど。
世の中は解決しない問題で溢れている。
産業革命以後、科学の発展にともない、
世の中は問題の発見と解決の発見の両輪で、
発展してきたと思う。
だが、なんとなく皆が感じている通り、
人類の発展はこのへんが頭打ちなのではないか、
という空気が支配しているような気がする。
地球は無限ではなく有限であるという発見は、
環境破壊という問題から、エコやSDGsという思想へとつながる。
だけど結局やってることは、
発展ではなく「がまん」に過ぎない。
資本主義で社会は発展したけど、
名目経済成長は上級国民を肥え太らせるだけで、
実質の経済はちっとも豊かにならない。
AIは発展するかもしれないが、
人類はまだ炎上とかやってる。
いくらでも問題は解決できるぞ、
という空気よりも、
「もう解ける問題は大体先人が解いてるから、
それをコピペだけして集めればよく、
新しく解くのはよほど天才じゃないと無理」
みたいになってるのではないだろうか。
こうした時代の空気で、
物語だけが、「問題と鮮やかな解決」を、
提出し続けられるのだろうか?
「もう解ける問題がない」
という前提は、
「物語に、解決を求めない」
という流れになるような気がする。
「ライトがつかないの」という有名なコピペは、
男は問題解決に興味と焦点が当たるのに、
女は共感に焦点が当たり、
すれ違うというものである。
男は問題解決に興味がある。
だから、解決しない物語からは興味を失う。
ところが、女はは問題解決よりも共感に焦点があたる。
つまりは、
ディテールの消費をして、
問題解決はどっちでもいい、と考える。
(偏見です)
だから、最近の物語は、
解決しない、ディテールの消費をしていて、
男は見なくて、女だけが見ている。
(極論です)
まあぶっちゃけ、801的なものだ。
推しが推しとイチャイチャして、
望みのシチュエーションにいて、
目的も問題も解決もない、
永遠の空間でぐるぐる回っていれば良い、
というやつだ。
男はこの問題解決のなさに興味がないから、
こうした物語は見ない。
しかも現実は、よほどでない限り問題が鮮やかに解決しそうにない。
だから、「たかが物語で解決されること」に、
興味を失ってるのではないか?
女は、解決しない物語を消費し続けて、
だから最近の邦画は、
女向けの解決しない話ばかりになるのでは。
商売が客を見るのは当然だが、
男が見ないのなら女に見せるもので商売するしかない。
そしてそこには、問題の解決はなくてもよい。
かくして、物語から問題と解決が、
蒸発しつつあるのかな。
あくまで仮説だ。
僕は、こんな時代であっても、
興味のある問題と鮮やかな解決を描くことは出来ると思っていて、
それは切り取り方の問題であろうと考えている。
現実でも解決できてない問題を、
物語の中で解決するのは不可能だ。
ていうか嘘っぽい。
現実で解決してしまった問題を、
物語の中で追認してもおもしろくない。
扱うべきは、
解けてもないし解決不可能でもない、
「解けそうな問題」だと思うのだ。
それはおそらく、
「見たこともない問題」にすると、
いいと思うんだよね。
デスゲームを攻略するとか、
宇宙人やAIと戦うとか、
「ルールの分からないものに挑む」
というのはずっと前から流行っているが、
それはそういう出口を見つけたからだと考えられる。
で、それはもちろんそろそろ飽きていて、
じゃあ何だったら行けるのだろうと思うと、
人間関係はひとつあると思う。
人間関係の問題と解決はなんだろうと思うと良いかも。
つまりメインプロットの問題はそんなに困難ではないが、
そこに横たわる人間関係の難しさを主題にするのはありだろう。
ただし辛気臭い日本映画になりがちだから、
そこをウィットに富んだスカッとするものに仕上げて、
見せ物の目玉(客寄せパンダ)を他に持ってくると、
新しいタイプの問題と解決になると考えている。
世界はいま行き止まりにいる感じがある。
踊り場なのか下降線になるかは知らない。
こんな時に問題解決しない女たちに、
物語の主導権を渡すべきじゃないと思う。
現状を追認して改革が遅れるだけだ。
もちろん、問題解決しようとする女たちは、
俺はすきだ。
物語とは、問題と解決である。
解決しないのは物語じゃないと僕は思う。
男はこの問題解決のなさに興味がないから、
こうした物語は見ない。
に対して、日常系アニメやVTuberの台頭を見るに、程度の差はあれど男もこうした物語を見ているのではないかなと感じています。
同様に極論すれば、彼らの主張は「話はなくていい、女の子がかわいければそれでいい」であり、そのため男女の差は介入しないように思うのですがいかがでしょうか。
日常系の流行は、社畜の増加と関係しているような気がします。
ゲーム実況もふくめて、仕事で疲れてこれ以上考えたり積極的になりたくない、
ということと関係している気がしますね。
その重しを外して、はじめてその仮説が現実味を帯びるかと。
かつてはどんどん増える若い世代に向けて作れば済んでいたものが、
いまや歳をとっていくボリュームゾーン合わせで、
変質を続けなければならなくなったということでしょうか。
若者が少ないんじゃしょうがねえ、みたいな諦めが、
現在業界に漂っている気がしますね。
社畜の増加(後天的な要因)と関係があるのであれば、なおさら男女の差(先天的な要因)とは言えないような気がしました。なので男女差を理由の一つとした今回の記事の内容に疑問を持った、というのがそもそもの本筋でございました。
(個人的には、後天的な原因によって物語から問題と解決が蒸発しつつある、という方が納得しやすいです)
コメントの後半部分に関しては確かにそうなのだろうなと思いました。
ちょっと言葉が足りなかったかもですが、
社畜のあり方でも男女差があると僕は思ってるので、
後天的要因は二種類ある前提でした。
社畜による去勢(男)→(本来やりたい)問題解決はどうでもいいや→美少女見るので精一杯
社畜による去勢(女)→ディテールに逃げる→いろんなもので癒されて生きる気力を取り戻す
の差があるような気がします。
美少女は逃避先でしかなくて月曜が来たら鬱なんですが、
ジャニーズは明日への活力を生んでる気がするので。
ま、極論です。
いずれにせよ、問題が解決しない社会になりつつある気はしています。
ありがとうございます。
表題の議論とは違ってしまうようで恐縮ですが、
>社畜による去勢(女)→ディテールに逃げる→いろんなもので癒されて生きる気力を取り戻す
という指摘は新鮮。
山田玲司という漫画家が作品には「覚醒コンテンツ」と「麻酔コンテンツ」がある、ということを言っていまして。
確かにそうなんでしょうけど、常々、30過ぎのいい大人がフィクションに「覚醒」させられるのもどうよ? とは思っていまして。
それはともかく、だからといって「麻酔コンテンツ」も一時しのぎの効用しかないわけで、それもどうよ? と思っていましたが、「麻酔コンテンツ」でも女には一時しのぎではない効用があるわけですね……。
ただ女の場合も、結局根本の社畜問題の解決には至らないと。
それでも「麻酔コンテンツ」で女は力を蓄えて、どこか別天地に旅立つエネルギーを得るということでしょうか。
イマイチとりとめのない感想になってすいません。いつもブログで勉強させていただいております。
逆のストレス面から考察するとわかりやすくて、
男は問題解決できないのがストレス、
女はディテールで遊べないのがストレス、
と考えるとわかりやすいかと。
男は社畜になると何もできない廃人ができるし、
女は自由な買い物やおしゃべりやオシャレを禁止し続けると、
廃人ができるのではないでしょうか。
社畜はだから、女にとっては真のストレスではない気がしますね。
いずれにせよ我々は資本家に飼われているわけで、
これを共産主義革命ごときではひっくり返せなかったのが、
20世紀までの流れですかね。
21世紀は個人同士でワイワイやってるインターネットが、
突出するたびに大手が乗り出して衰退して、
次の場所を探すといういたちごっこが続いてる感じがしますが。
メタバースでVRやバ美肉はそろそろ終わる(=新しい発明がなくなる)でしょう。
元に戻ると、じゃあなんのための物語か?
は、常に意識しておくべきだと思います。