Twitterから。
> OKAMURA@コミックス2巻発売中@okamura3220
> 上手く言えないんですけど
> 「エロ」の状態では多量に含まれてて「セックス」になった時に一気に失われてしまう何かの成分が大好きなんですよ
映画の予告編と本編でも、
同じことが起こるような気がする。
失われたのは、「期待感」だろうか。
期待感はそれそのものにない。
期待感は、我々の頭の中にある。
パンチラや胸の谷間から、
シチュエーションエロから、
果てはケーブルポルノに至るまで、
(ケーブルポルノというのは自作キーボード界隈で初めて知った言葉だが、
整然と整理されたサーバーの大量のケーブルなどに、
フェチズムを感じるジャンルだそうな。うん、わかる。
工場やエアコンの配管にグッと来る気持ちに似ていると思う)
我々はそれを見た時に、
「おっ」とか、「ほほう」とか、
「んふぅ」とか「たまらん」とか思うわけだ。
そしてそれは、
静止した一点であることに気をつけよう。
それらは、展開してはならない。
展開せずに、「その先を色々と想像することが楽しい」
であるべきだ。
すなわち、パンチラ→セックスという流れが楽しいのではない。
パンチラ止まりであり、
この先何かあるのか?ないだろうな、
いやもしあるとしたら、垣間見えたあのパンツがそこにあり、
などと、「今ないことについて想像すること」が、
楽しいのだ。
そう、パンチラは垣間見えることが重要で、
パンツボーンとか足パカーンではエロではないのだ。
垣間見えたことで膨らむ想像がエロなのだ。
セックスなど始まってしまえば大体同じだが、
「え?まさかこんなシチュエーションから?」
と無限の始まりがあり得ることを想像することが、
エロなのだと考えられる。
予告編も同じである。
予告編は垣間見せるエロでなければならない。
まさか、こんなことから物語が?
と想像させるものであるべきで、
実際のセックス(本編鑑賞)がはじまるまで、
期待に期待を膨らまさせるものであるべきだ。
そしてここからが本題なのだが、
映画の本編は、
予告で想像した期待より、
遥かに面白くあるべきだ、
ということである。
エロより興奮して満足するセックスは、
そんなに回数ないだろう。
ピストンや射精そのものの満足よりも、
手を繋いだ瞬間の方が、
たいていはトキメキは上がるものだ。
だが映画に関しては、
手を繋いだ時のトキメキよりも、
本編の満足感が上回るべきだ、
という話をしている。
そして、
本編のパンチラに当たるのは、
一幕全体である。
これは、
「このあとどういう展開があり、
どのような結論になるのだろう。
おそらくこうだろう、
いやそうじゃないかもしれない」
である一幕がベストだということだ。
そしてその後も完璧に出来ていれば、
一幕のエッセンスを持ってくるだけで、
予告編のエロになるぞ、ということである。
そしてそのエロに対して、
二幕三幕で、
エロを凌駕するセックスでなければならないわけだ。
エロは点である。
そしてセックスは線である。
エロは頭の中にしかなく、
セックスは行動という「実際にやること」だ。
映画において、
一幕=エロ=予告編<本編=セックス
の関係になった時、
理想的な関係になるわけだ。
これらの関係を理解せずに、
編集をかき回すだけかき回して、
それを生かさない予告編を作った角川映画を、
僕はまだ許していない。
エロのことを理解していないのではないかと思う。
さて、
現実にはエロからセックスに至る時に、
失われるものがある。
映画は現実ではないので、
エロ+なにか=セックスになるべきで、
そのなにかを我々は考える。
我々はエロ職人でもあるし、
セックス職人でもある。
2022年02月23日
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