欠陥というか、音声言語と書き文字の文章の差異のことなんだけど。
音声で話す話って、すごく薄いんだよね。
書くことって、それを圧縮して、推敲して、
構造化することだと思う。
言うことは楽だ。
ラジオで喋ったこともあるし、
講演も何回かしたことあるけど、
ある程度ネタがあれば、喋ること自体はできる。
でも書くことは言うことの何倍も難しい。
話して時空に消える内容を、
うまく構造化しなければならないからだ。
僕はそのための、
「書く道具」をつくっているつもり。
というのを思ったのは、
以下のようなブログを見たから。
https://www.border09.com/using-voicinput/
音声入力+親指シフトで入力した内容らしい。
親指シフトで検索してたら出てきた。
…薄い。薄すぎる。ほとんど情報量がない。
もちろんこれは道具の問題ではなく、
書き手の技量の問題であるとは思う。
でも喋ることってこの程度のことしか言ってないんだよね。
書く/読むという行為は、
言う/聞くよりも、よっぽど練られた行為だと、
僕は考えている。
音声入力は便利かもしれない。
エネルギー少なくなるからね。
でも、書くことを意識せずに、
喋るだけになると、
この程度の内容しか書けなくなってしまうおそれがある。
人は低きに流れるので、それに気づかないことが多い。
じゃあ書くことってなんだろう。
問題意識があり、前振りがあり、
本論があり(それがいくつかの章にわかれ)、
結論ないしオチがあることだろう。
少なくとも3ブロックに分かれて、
前振りとオチが関係しているべきだ。
そこで円環が閉じられて、
ひとつの宇宙になるからだ。
喋る時にそこまで意識して喋り始められる人は、
そんなにはいないだろう。
大阪人は話をする時必ずオチをつける習慣があるが、
これは日本人全員ではあるまい。
(大阪人は、東京流の、オチのない普通の話がすごく嫌いだ)
こうした構造化をしながら話せる人は、
よほど頭の回転が速い人だけだろう。
そうでない人は、
書きながら考えたり、
行きつ戻りつして推敲するものである。
ただ言いっぱなしにすることと、
構造化して書くことは、まるで違うと思う。
親指シフトの「指が喋る」は、
単なるキャッチコピーだと思うんだけど、
書くことに使わずに、
ただの放談に使うだけならば、
単なるおしゃべりクソ野郎になってしまうよね。
喋るとか音声入力、口述筆記の難しさは、
構造化よりも空気に引っ張られがちなことだと、
僕は考えている。
逆に、書くこととは、
たかが空気や思いつきごときに引っ張られないようなことを、
表すことだ。
音声入力は、なまじ口という道具を使うがゆえに、
書くことを忘れて喋ることに集中してしまいがちになるのでは?
あくまで仮説だけど。
(と、最初に戻って円環を閉じる)
2022年03月13日
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