2022年03月19日

デジタルは人を幸せにしない: 実感の喪失

今撮影のために北海道に来ているのだが、
テレカン打ち合わせよりも、
リアル打ち合わせの方が遥かにことが進み、
さっさと終わるどころか、精度の高いことまで気づくことができて、
感動すらしている。

で、ウクライナの無人機操縦戦車の画面を見て、
ゲームみたいだなと思う。

僕はずっと現実を「仮のものにする」ことが、
デジタルの良くない所だと考えているが、
まさにそんな感じ。


リアルに戦車を操縦して、
相手の戦車を打ち、
あるいは歩兵に機銃掃射すると、
その緊張や罪悪感や物理フィードバックは、
すさまじいものがあると思う。
肉眼でマシンガンに蜂の巣にされ、倒れ、
血を流し、即死したりしばらく生きてて死ぬ人を、
見ることになるし、
その血がこちらに流れてくることもあるだろう。

デジタル戦車はそれを体験しなくて良い。
みんなFPSにたとえていて、
コントローラーがゲームのやつならやれそう、
という人は沢山多い。
人を殺すことを、仮のものにしている感覚が、
そこにあると思う。

仮のものとはつまり、
当事者意識の欠如だ。

自分の行動や発言が、
敵味方問わず他人の人生に影響を与えて、
変更できない決定を及ぼし、
そのことに責任を持つことである。


デジタル会議は、それがずいぶん少ないと思う。
メールやチャットによる指示はさらにだ。

その場にいない人に関わる決定とかも、
デジタルだとずいぶん軽く扱われると思う。


リアルの責任の感じはとても重い。
だからそれを引き受けて、前に進む。

だけど、デジタルはそれに耐えられない人を、
耐えられないまま決定に進んでしまう。

決定への負荷がさがり、
決定する責任の持てない人を責任者にしてしまう。


テレカン会議の薄さは、つまりは責任の薄さだ。

中抜きってこうやってやってるんじゃないか。
知らない他の人に責任をおしつけて、
自分は中間にいてパスだけする感じ。
なんならそのパスに自分の色を乗せることで、
自分の色をつけた誤った全能感に支配されてる感じ。

自動戦車に殺された兵士たちは、
それを思いながら死んでいく。

テレカン会議で決定されたものも、
たぶん我々の肩に乗ったままだ。

そして我々は、それを安易にデジタルで誰かに押し付けるべきじゃない。
posted by おおおかとしひこ at 09:18| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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