今撮影のために北海道に来ているのだが、
テレカン打ち合わせよりも、
リアル打ち合わせの方が遥かにことが進み、
さっさと終わるどころか、精度の高いことまで気づくことができて、
感動すらしている。
で、ウクライナの無人機操縦戦車の画面を見て、
ゲームみたいだなと思う。
僕はずっと現実を「仮のものにする」ことが、
デジタルの良くない所だと考えているが、
まさにそんな感じ。
リアルに戦車を操縦して、
相手の戦車を打ち、
あるいは歩兵に機銃掃射すると、
その緊張や罪悪感や物理フィードバックは、
すさまじいものがあると思う。
肉眼でマシンガンに蜂の巣にされ、倒れ、
血を流し、即死したりしばらく生きてて死ぬ人を、
見ることになるし、
その血がこちらに流れてくることもあるだろう。
デジタル戦車はそれを体験しなくて良い。
みんなFPSにたとえていて、
コントローラーがゲームのやつならやれそう、
という人は沢山多い。
人を殺すことを、仮のものにしている感覚が、
そこにあると思う。
仮のものとはつまり、
当事者意識の欠如だ。
自分の行動や発言が、
敵味方問わず他人の人生に影響を与えて、
変更できない決定を及ぼし、
そのことに責任を持つことである。
デジタル会議は、それがずいぶん少ないと思う。
メールやチャットによる指示はさらにだ。
その場にいない人に関わる決定とかも、
デジタルだとずいぶん軽く扱われると思う。
リアルの責任の感じはとても重い。
だからそれを引き受けて、前に進む。
だけど、デジタルはそれに耐えられない人を、
耐えられないまま決定に進んでしまう。
決定への負荷がさがり、
決定する責任の持てない人を責任者にしてしまう。
テレカン会議の薄さは、つまりは責任の薄さだ。
中抜きってこうやってやってるんじゃないか。
知らない他の人に責任をおしつけて、
自分は中間にいてパスだけする感じ。
なんならそのパスに自分の色を乗せることで、
自分の色をつけた誤った全能感に支配されてる感じ。
自動戦車に殺された兵士たちは、
それを思いながら死んでいく。
テレカン会議で決定されたものも、
たぶん我々の肩に乗ったままだ。
そして我々は、それを安易にデジタルで誰かに押し付けるべきじゃない。
2022年03月19日
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