「私の書いた○○は最高だ」まで、
すべて内輪受けである。
日本人は内輪受けのところがある。
外人は知らない。
日本は狭い国土に育ち、
流動的でない村の関係が長いから、
内輪がどうしてるかの噂話が気になる。
芸能人の結婚離婚が、話の種になるのはそうした意識だろう。
(たとえばアメリカでも、
こんなゴシップが追いかけられてるのかな。
パパラッチやタブロイド誌の存在は知ってるけど、
日本の方が身内話っぽくて、
政治スクープは文春任せな気がするな)
こうした文化的土壌では、
ブロッコリーポスターが蔓延るのは、
自然な進化かもしれない。
うちの息子が出る学芸会だからと、
その学芸会の出来を一切問わず、
息子をアップで追い続ける親のビデオと、
推しの芸能人が出るからと、
その映画の出来を問わず、
○○さんカッコよかったーと言ってる人は、
同じことをしていると思う。
その学芸会をカメラで撮るならば、
必要なところで引きを撮り、
重要な場面でアップを撮り、
二人が必要なサイズなら二人をフレームに収め、
三人が必要なサイズなら三人をフレームに収め、
つまりは文脈を最大に理解させるような、
画面サイズをコントロールするべきである。
勿論初見でそれをやることは不可能で、
だからコンテという計画書があるわけだ。
だから、学芸会は息子のアップのみなのだろう。
まあそもそも記念写真と同じ程度のものなのだろうが。
つまり、内輪受けとは、
記念写真を撮る心理と、おなじだ。
全体の意義や出来を考えずに、
その部分の身内ばかりのクローズアップをするわけだ。
修学旅行の記念写真は、
面白かった友達の思い出を、
好きだった子の盗み撮りを、
思い出すためにある。
全体の目的や出来ならば、
たとえば京都への旅行ならば、
事前に調べてあった日本史の史跡を辿るとか、
この学習をこれからどう生かすかとか、
そんなことが問われるはずだ。
そんなふうに修学旅行を捉える人はいないだろう。
それと、内輪受けは同じ感覚だと思う。
もし修学旅行で、
楽しい思い出のことを語らず、
京都の○○には寄るべきだったとか、
奈良まで足を伸ばして、○○と○○の実際の比較をするべきだった、
などを批評できる人がいれば、
その人は脚本家や監督にむいている。
内輪受けを客観視しているからだ。
もちろん友達がいなくて寂しくて、
それしか見るものがなかったとかではない。
友達とも十分楽しんだし、
好きな子に告白し損ねたけど、
全体としての流れや意義についても理解していて、
それらを分離して、
認識しているかどうか、
という話である。
我々は表現者であるが、
ともすると、自分の作品を客観視できず、
内輪受けと認識してしまう。
この場合の内輪は、
自分だ。
自分の内輪を自分の範囲に狭めているわけだ。
これが、おもしろいはずがない。
以前にも貼ったと思うけど、
アマチュア創作者のタイプを、
4に分けたものが興味深い。
このうち上二つ、親タイプとクラブのママタイプは、
ストーリーを書く人に向いていない。
内輪受けだからだ。
絵を描いたり音楽を作ることには向いてるかも知れない。
写真家や照明部や美術部や衣裳部やヘアメイク部など、
技術部に向いてる可能性もある。
全体を客観的に見て、
世界を作り、
他人から見た全体をプロデュースできるのは、
後半二つのタイプだ。
ただ、映画監督タイプでないと、
他者との共同作業が難しいと思う。
箱庭タイプは「自分の世界」がありすぎて、
他人の迷惑を顧みないわがままタイプになりがちだ。
小説や漫画家など、一人作業アーチストなら、
向いてるかもしれない。
シナリオは、
他人(スタッフやキャスト)と共有することを前提としたものだ。
だから箱庭タイプは、
自分だけがわかってる独善的なシナリオを書く可能性が高く、
結局第三のタイプが、
シナリオを書くのに最も向いていると思う。
このタイプ分けは、先天的なものとは思えない。
今自分はこうだな、と思い、
こっちになるべきだ、と思えるなら、
自分の意識や注意の向け方や観察眼を、
変えていけるようなものだと思う。
内輪受けは、誰のものか?
内輪のものだ。
そこに閉じこもらずに、
外を動かせるものをつくるべきだ。
マーケティングってさ、
内輪受けに客を絞るってことじゃんね。