映画において、アクションシーンは華である。
なぜアクションするのか。
強烈な動機のためだ。
危険を顧みず、そのためにそれがしたいなら、
やるしかない。
それが危険であるほど、派手であるほど映画はおもしろい。
で、アクションシーンのときに、
人はあんまりしゃべらない。
しゃべることは理性の働きであり、
認識をしたり判断をしたり考察したりする。
これは、アドレナリンが出ている状態とは違う。
アクションシーンの時には、
アドレナリンが出て、
本能や反射で動き、
ある一つの目的の遂行で精一杯で、
計画性はなく、アドリブである。
それらが成功または失敗して、
落ち着き、
呼吸が整い、アドレナリン放出が終わってから、
やっと理性が戻ってくる。
つまり、
アクションのあと、人は饒舌になる。
転んだあと、
誰も聞いてないのに「滑ったわー」と「説明」するのは、
おそらくそうした理由だろう。
一瞬アドレナリンが放出され、
一瞬我に帰り、理性が追いかけてくるのだ。
思わず殴ったあと、ごめんと愛を説くDVも、
そうした仕組みじゃないかな。
猛烈にセックスしたあと、
愛を語るのもそういうことではないだろうか。
飯を食うときは最初は夢中で、
「うまー」とか動物的な鳴き声しかなく、
まともに喋るのは後半だよね。
快眠のあとは「よく寝たー」と言いたくなる。
快便のあとは「このデカイうんこ」と認識をしたくなる。
人は、本能のあと、理性でそれを認識しなおしたくなる、
ということだ。
これは使える。
冒険の夜の酒場で、冒険は語られる。
アドレナリンが落ち着いたあと、
人は解説したくなり、
そこで本当には何があったのか知りたくなる。
あなたのストーリーの、
アクションシーンはどこか?
そのアクションが派手であればあるほど、
アドレナリンは放出されるだろう。
そのあと、どうなってる?
心拍数が徐々に下がってきた後、
どうしてる?
言葉を回復する部分を描いてるか?
「あのときは夢中だったけど、
やれてよかった」みたいなことでいいから、
言葉を発するとよい。
それは、観客の気持ちでもある。
それを代弁すると、観客の気持ちと主人公の気持ちが一致することがわかる。
つまり、感情移入である。
ドラマ風魔でもあったね。
麗羅の初陣後、「ぼくが初めて人を殺した」と、
言葉にするシーン。
あれがなければ麗羅はただの黒い子だけど、
あれがあることで、この子も人の子だと、
可愛くなってくるわけだ。
登場人物の皮の外から、皮の中に、
気持ちが入っていく瞬間は、
こうした部分であるわけだ。
ちなみにあの場面は僕が書いたけど、
「ようし感情移入させたろ」と思って書いたわけじゃない。
「リアルならこうだろう」と思って書いてる。
そのリアルらしさで、人は作品を信じるわけだ。
2022年05月01日
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