2022年05月01日

本能で動いた後は、理性が追いつく

映画において、アクションシーンは華である。
なぜアクションするのか。
強烈な動機のためだ。
危険を顧みず、そのためにそれがしたいなら、
やるしかない。
それが危険であるほど、派手であるほど映画はおもしろい。

で、アクションシーンのときに、
人はあんまりしゃべらない。


しゃべることは理性の働きであり、
認識をしたり判断をしたり考察したりする。

これは、アドレナリンが出ている状態とは違う。
アクションシーンの時には、
アドレナリンが出て、
本能や反射で動き、
ある一つの目的の遂行で精一杯で、
計画性はなく、アドリブである。

それらが成功または失敗して、
落ち着き、
呼吸が整い、アドレナリン放出が終わってから、
やっと理性が戻ってくる。


つまり、
アクションのあと、人は饒舌になる。


転んだあと、
誰も聞いてないのに「滑ったわー」と「説明」するのは、
おそらくそうした理由だろう。
一瞬アドレナリンが放出され、
一瞬我に帰り、理性が追いかけてくるのだ。

思わず殴ったあと、ごめんと愛を説くDVも、
そうした仕組みじゃないかな。

猛烈にセックスしたあと、
愛を語るのもそういうことではないだろうか。

飯を食うときは最初は夢中で、
「うまー」とか動物的な鳴き声しかなく、
まともに喋るのは後半だよね。

快眠のあとは「よく寝たー」と言いたくなる。
快便のあとは「このデカイうんこ」と認識をしたくなる。

人は、本能のあと、理性でそれを認識しなおしたくなる、
ということだ。


これは使える。

冒険の夜の酒場で、冒険は語られる。

アドレナリンが落ち着いたあと、
人は解説したくなり、
そこで本当には何があったのか知りたくなる。



あなたのストーリーの、
アクションシーンはどこか?
そのアクションが派手であればあるほど、
アドレナリンは放出されるだろう。

そのあと、どうなってる?
心拍数が徐々に下がってきた後、
どうしてる?

言葉を回復する部分を描いてるか?

「あのときは夢中だったけど、
やれてよかった」みたいなことでいいから、
言葉を発するとよい。

それは、観客の気持ちでもある。
それを代弁すると、観客の気持ちと主人公の気持ちが一致することがわかる。
つまり、感情移入である。


ドラマ風魔でもあったね。
麗羅の初陣後、「ぼくが初めて人を殺した」と、
言葉にするシーン。
あれがなければ麗羅はただの黒い子だけど、
あれがあることで、この子も人の子だと、
可愛くなってくるわけだ。

登場人物の皮の外から、皮の中に、
気持ちが入っていく瞬間は、
こうした部分であるわけだ。

ちなみにあの場面は僕が書いたけど、
「ようし感情移入させたろ」と思って書いたわけじゃない。
「リアルならこうだろう」と思って書いてる。
そのリアルらしさで、人は作品を信じるわけだ。
posted by おおおかとしひこ at 00:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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