2022年05月06日

「アイデアを思いついた」とは、客観的に距離を離せたことではないか

説。


閃きはどこからやってくるのか、
真面目に研究してる人はいないだろう。

再現性もないし、
条件を揃えることも難しいし、
測定も難しいし、
評価も難しい。
数値化できる部分がなにもない。

にも関わらず、
我々はアイデアや閃きを欲しがっている。

それがあれば、
何もかも解決できる魔法の種をだ。


逆に、
アイデアが思いつかない、
煮詰まった状態を考えよう。

ここに陥ることを避けて、
アイデアがバンバン湧く状況に持ち込むことが理想である。

煮詰まりとは何かを考えればヒントがあるのではないか。


で、煮詰まりとは、
近視眼だと僕は考えている。

色々な制限やらごちゃごちゃした状況があり、
目の前にあるやれることは全部やって、
何を1ミリ動かしても大して変わらないような状態が、
長く続いていることが、
煮詰まりではないかと思う。

そこから脱してアイデアを得るときはどういうとき?

別の角度から光明が見えたときだよね。
それって、
そのごちゃごちゃから引いた目で見て、
横に回ってみようとか、全然違う角度から眺め直してみようとか、
思えるときだと思うのだ。


つまり、目の前しか見えてないときは、
アイデアなんか出てこない。

目の前のあらゆる条件に詳しく、
専門家になったとしても、
それは近視眼でしかなく、
そこに拘泥することである。

そこに囚われているから、そこでないものを思いつけないのだ。

そこにないものが欲しければ、
そこでない場所からそれを見ることだ。


僕が忘れるために三ヶ月寝かせろなんてよくいうのは、
まるでそれを忘れるためである。

全然知らない人に一度物理的になってしまい、
距離をあけて、砂被りの細かい事情など忘れて、
ただの観客に戻るためだ。

「全然知らない人にこの専門知識を一言で言うと?」
なんて訓練もその参考になる。
初めてそれに触れる人のことを想像すると、
一気にその泥沼はどう見えているのかを意識する。

素人目から見て、
これはいったい一言で捉えるとどういうことなのか、
さえ分かれば、
アイデアは自ずとわいてくる。
「これってこういうことだよね。
だとしたら…」と言えるからだ。

学会での質問、
「この分野は素人なので、素人質問で申し訳ないのですが」
の前置きは、
最も恐怖の質問として知られている。
専門知識で誤魔化せず、
本質的なところを問われる可能性が高いからだ。

つまり、素人質問は、もっとも距離の離れたところからの質問で、
つまり客観的な目線であるわけだ。


この客観的視座、
「これってこういうこと」という一言による認識さえあれば、
脳はそのことを一点まで圧縮できる。

このことで99%のメモリが解放されるわけだ。

つまり、拘泥していた泥沼は脳内や視界から消えて、
「ぶっちゃけこれはこれ」になり、
やっと脳が考え始められるわけである。

そしたら、
アイデアなんて自動的に思いつくよ。


だって必要なのは、飛躍したアイデアでしょ?

飛躍するためには、現在位置と飛躍した位置の、
両方が視野に入るくらい、
カメラを引かないといけないよね?

近視眼じゃ飛躍はできないよね。



寝るのはひとつの手である。
忘れるのもひとつの手だ。
全然違うところで全然違う話をするのもよい。
(忘れるための方法論でもあるし、気分転換でもある)

地球のことを考えるときに、
国単位や民族単位や家族単位や個人単位で考えても、
アイデアは出てこない。
月の軌道まで引いたり、太陽が入るまで引いたり、
木星軌道や銀河系や乙女座銀河団まで引ければ、
アイデアは出るかもしれないね。

これだけ広いところに生命の星はここしかないのだから、
仲良くなるべきだ、でもいいし、
生命の本質は争うことであるから、
これを一万年やってればよいのだ、でもいい。

近視眼では得られない視座だけが、
次のアイデアをつれてくる。
posted by おおおかとしひこ at 00:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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