説。
閃きはどこからやってくるのか、
真面目に研究してる人はいないだろう。
再現性もないし、
条件を揃えることも難しいし、
測定も難しいし、
評価も難しい。
数値化できる部分がなにもない。
にも関わらず、
我々はアイデアや閃きを欲しがっている。
それがあれば、
何もかも解決できる魔法の種をだ。
逆に、
アイデアが思いつかない、
煮詰まった状態を考えよう。
ここに陥ることを避けて、
アイデアがバンバン湧く状況に持ち込むことが理想である。
煮詰まりとは何かを考えればヒントがあるのではないか。
で、煮詰まりとは、
近視眼だと僕は考えている。
色々な制限やらごちゃごちゃした状況があり、
目の前にあるやれることは全部やって、
何を1ミリ動かしても大して変わらないような状態が、
長く続いていることが、
煮詰まりではないかと思う。
そこから脱してアイデアを得るときはどういうとき?
別の角度から光明が見えたときだよね。
それって、
そのごちゃごちゃから引いた目で見て、
横に回ってみようとか、全然違う角度から眺め直してみようとか、
思えるときだと思うのだ。
つまり、目の前しか見えてないときは、
アイデアなんか出てこない。
目の前のあらゆる条件に詳しく、
専門家になったとしても、
それは近視眼でしかなく、
そこに拘泥することである。
そこに囚われているから、そこでないものを思いつけないのだ。
そこにないものが欲しければ、
そこでない場所からそれを見ることだ。
僕が忘れるために三ヶ月寝かせろなんてよくいうのは、
まるでそれを忘れるためである。
全然知らない人に一度物理的になってしまい、
距離をあけて、砂被りの細かい事情など忘れて、
ただの観客に戻るためだ。
「全然知らない人にこの専門知識を一言で言うと?」
なんて訓練もその参考になる。
初めてそれに触れる人のことを想像すると、
一気にその泥沼はどう見えているのかを意識する。
素人目から見て、
これはいったい一言で捉えるとどういうことなのか、
さえ分かれば、
アイデアは自ずとわいてくる。
「これってこういうことだよね。
だとしたら…」と言えるからだ。
学会での質問、
「この分野は素人なので、素人質問で申し訳ないのですが」
の前置きは、
最も恐怖の質問として知られている。
専門知識で誤魔化せず、
本質的なところを問われる可能性が高いからだ。
つまり、素人質問は、もっとも距離の離れたところからの質問で、
つまり客観的な目線であるわけだ。
この客観的視座、
「これってこういうこと」という一言による認識さえあれば、
脳はそのことを一点まで圧縮できる。
このことで99%のメモリが解放されるわけだ。
つまり、拘泥していた泥沼は脳内や視界から消えて、
「ぶっちゃけこれはこれ」になり、
やっと脳が考え始められるわけである。
そしたら、
アイデアなんて自動的に思いつくよ。
だって必要なのは、飛躍したアイデアでしょ?
飛躍するためには、現在位置と飛躍した位置の、
両方が視野に入るくらい、
カメラを引かないといけないよね?
近視眼じゃ飛躍はできないよね。
寝るのはひとつの手である。
忘れるのもひとつの手だ。
全然違うところで全然違う話をするのもよい。
(忘れるための方法論でもあるし、気分転換でもある)
地球のことを考えるときに、
国単位や民族単位や家族単位や個人単位で考えても、
アイデアは出てこない。
月の軌道まで引いたり、太陽が入るまで引いたり、
木星軌道や銀河系や乙女座銀河団まで引ければ、
アイデアは出るかもしれないね。
これだけ広いところに生命の星はここしかないのだから、
仲良くなるべきだ、でもいいし、
生命の本質は争うことであるから、
これを一万年やってればよいのだ、でもいい。
近視眼では得られない視座だけが、
次のアイデアをつれてくる。
2022年05月06日
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