時々忘れてしまうが、
シナリオは俳句ではない。
水路と門のようなものだ。
あるストーリーの流れがある。
別の流れがある。
それらがここで合流するから、
その水量を考えて、丈夫に合流路をつくる。
あるいは、まだ合流は早いから、待ったりする。
逆に早める。
流れが細いから、もっと太く、勢いよくする。
あるいは早すぎるから細くしたり、分流したりする。
そうした水路の設計がシナリオだと僕は思う。
そもそも流れていない水は水路設計しても無駄だから、
まずは勢いのある水を持ってくるべきだ。
ついつい忘れてしまうのが、
じっとシナリオを見て、
一言一句直したくなる瞬間である。
セリフが気にくわない、こういう言い方にしたほうがいいんじゃないか、
ト書きはこうしたほうがいいんじゃないか、
シーンの柱はこういう表記に変えるべきでは、
などと細かい部分が気になっているとき、
俳句なみの直しばかり考えてしまう。
俳句は17文字の宇宙だから、
一文字直せば1/17変更されてしまうので、
一文字一文字に気を配るのは当然だ。
だけどシナリオは4万8000字である。
数文字直したところで、
全体の水路が大きく変わるわけではない。
シナリオのリライトで一番やるべきことは、
水路という流れの設計であり、
水路のひび割れ修繕や草取りをすることではない。
そんなもの多少適当でも、
大きな水の流れには関係ないのだ。
つまり「完璧なシナリオ」というのがこの世にあるとして、
それは芭蕉の俳句のようにすべての語句が練られているもの、
ではないということだ。
そうではなく、完璧なシナリオの条件とは、
水路設計が完璧なものをいう。
すべての流れが勢いよく、停滞はなく、
水は腐らず、アップダウンが魅力的で、
全体を見失うこともなく、
どこかは隠し、どこかはあらわになり、
という流れの面白さこそが、
シナリオがやるべきことである。
極論、どんなセリフでもたいして影響はないのだ。
(モンタージュ理論)
それが一文字変わったからといって、
影響力は変わらないのである。
だから、
リライトするときは、一文字一文字にこだわらないようにするべきである。
なんなら、その流れのためならば、
1シーンまるごとまったく書き換えてもいいし、
そのシーンがなくなることや、
新しいシーンが増えることだってあるわけだ。
一文字変えたってそんなドラスティックなことは起こらないよね。
もし気になるならば、
声に出して読んでみるといい。
自分が書きたかった細かい俳句的なニュアンスは、
セリフの読み方でコントロールすればよい。
「だいきらい」のセリフを「愛してる」のように読むことは可能である。
だから、
文字を直すことよりも、
今愛してるの流れが正しいんだっけ、
ということをチェックするべきなのだ。
しかも、
流れているストーリーというのは、
シークエンス単位で流れているものだ。
1シークエンスは3分から10分ある。
そんな中の一文字は、
流れに関係ないと思うよ。
もし一文字一文字が気になっているのなら、
そのストーリーは流れていないのではない?
流れが遅いから、停止しかかっているから、
細かいところがよく見えてしまうんだと思うよ。
それを直すことがやるべきことじゃない。
もっとどどどと水を流して、
勢いをつけることをやるべきなんだ。
今主人公は何を気にしているんだっけ。
何をやらないといけないんだっけ。
締め切りってあるんだっけ。
優先順位はあったっけ。
何かを忘れていないか。
主人公以外はどうか。
それらが足りなければ、
可及的速やかに、何をすればいいかを、
増やしてもよい。
前の何かを増幅してもよい。
あなたは水路を設計している。
金持ちの庭を想像しよう。ローマの水路でもいいよ。
設計者は全体を歩き回り、どこの水がうまく流れていないか見て回るよね。
小石があるかどうかは見ていない。
その流れが完全になったときだけ、
小石やひび割れや雑草や落ち葉を、
掃除すればいいんじゃない?
先に掃除したって、水が流れていない水路は意味ないよね。
まあ、気になるなら、気が済むまで掃除すればいいよ。
でもその水路を壊したり、まったく別のに作り替えることに、
愛着が生じてブレーキになることのほうが多くて、
だからディテールなんてあとでやるんだよね。
それを何回もやって、
水路を俯瞰する目を、養うしかないと思う。
見えていないやつはほんとに見えていないんだからねえ。
2022年05月19日
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