2022年05月20日

一字一句を直すと、なぜかシナリオは死ぬ

なんでかはわからない。経験論。


前記事の続き。
一字一句が気になり、
いちいち直すとするじゃない?
それをやったときは満足なんだけど、
なぜか停止して、流れが死ぬことのほうが多いんだよね。

流れているものの制御と、
停止しているものの制御は、異なるということだろう。

俳句は描写であり、物語ではない。
つまり俳句は写真である。
写真だから、とことんレタッチして、
直してもいいような気がする。
ところが、写真は物語ではない。
写真の仔細を検討することと、
流れを検討することはまるで違うことだ。

写真は二次元だが、映像は三次元である。
XYTの三次元だね。(奥行を使った演出では、
疑似的に四次元に見えるときもあるが)

二次元の直しを三次元でやる滑稽さ、
と思うといいかもね。
そんなの表面だけやんけ。
ちょっと横に回ったら、台無しや。
写真の直しと彫刻の直しを同じものだという人は、
信用しないほうがいいだろうね。


さて。
あなたは何をリライトすればよいのか?
流れを制御しているのだ、
という自覚を忘れないことだ。

ためしに、ダンスの振り付けをやってみるとよい。
どういう流れでこうするのか、
ということに注力できるはずだ。
そのときに、
指の向きとか、目線の位置をリライトするやつはいない。
どういう動きの次にどういう動きをするか、
それだけを構成するはずである。
それをどうしようか、というときに、
目線とかどうでもいいよな。

むしろ、流れが完璧ならば、
目線の向きなんてどっちでも成立してしまう。
それがモンタージュ理論である。
もちろん、目線が流れに関係するならば、
それがダメなものは直したほうがいいが、
そうでないならば、どっちでもいいのだ。

シナリオのリライトは、
そのような感覚でやらないと、
すぐに木を見て森を見ないようになってしまう。

今どの流れの話をしているのか、が、
リライトでやるべきことだ。

それができてから、一文字単位のことはするといいよ。
そしてそれは、全体作業のうち、1パーセントに満たない分量だ。
やるべきことは、
流れの制御である。

今どういう流れを、どのように制御しなおしたいのか、
それを考えることがリライトだ。


それをしないで、一文字一文字直していると、
流れそのものが死ぬだろう。
なぜなら、流れは止まっていないものであり、
一文字一文字直すことは、
それを止めて直すことだからだ。
「ちょっとそこで止めて」と直すやり方では、
流れを直すことは一生できないだろう。

いくら内蔵を細胞レベルに分割しても、
「命とはなにか」がわからなくなることに似ていると思う。
カエルは、解剖した瞬間に死ぬのだ。
posted by おおおかとしひこ at 01:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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