なんでかはわからない。経験論。
前記事の続き。
一字一句が気になり、
いちいち直すとするじゃない?
それをやったときは満足なんだけど、
なぜか停止して、流れが死ぬことのほうが多いんだよね。
流れているものの制御と、
停止しているものの制御は、異なるということだろう。
俳句は描写であり、物語ではない。
つまり俳句は写真である。
写真だから、とことんレタッチして、
直してもいいような気がする。
ところが、写真は物語ではない。
写真の仔細を検討することと、
流れを検討することはまるで違うことだ。
写真は二次元だが、映像は三次元である。
XYTの三次元だね。(奥行を使った演出では、
疑似的に四次元に見えるときもあるが)
二次元の直しを三次元でやる滑稽さ、
と思うといいかもね。
そんなの表面だけやんけ。
ちょっと横に回ったら、台無しや。
写真の直しと彫刻の直しを同じものだという人は、
信用しないほうがいいだろうね。
さて。
あなたは何をリライトすればよいのか?
流れを制御しているのだ、
という自覚を忘れないことだ。
ためしに、ダンスの振り付けをやってみるとよい。
どういう流れでこうするのか、
ということに注力できるはずだ。
そのときに、
指の向きとか、目線の位置をリライトするやつはいない。
どういう動きの次にどういう動きをするか、
それだけを構成するはずである。
それをどうしようか、というときに、
目線とかどうでもいいよな。
むしろ、流れが完璧ならば、
目線の向きなんてどっちでも成立してしまう。
それがモンタージュ理論である。
もちろん、目線が流れに関係するならば、
それがダメなものは直したほうがいいが、
そうでないならば、どっちでもいいのだ。
シナリオのリライトは、
そのような感覚でやらないと、
すぐに木を見て森を見ないようになってしまう。
今どの流れの話をしているのか、が、
リライトでやるべきことだ。
それができてから、一文字単位のことはするといいよ。
そしてそれは、全体作業のうち、1パーセントに満たない分量だ。
やるべきことは、
流れの制御である。
今どういう流れを、どのように制御しなおしたいのか、
それを考えることがリライトだ。
それをしないで、一文字一文字直していると、
流れそのものが死ぬだろう。
なぜなら、流れは止まっていないものであり、
一文字一文字直すことは、
それを止めて直すことだからだ。
「ちょっとそこで止めて」と直すやり方では、
流れを直すことは一生できないだろう。
いくら内蔵を細胞レベルに分割しても、
「命とはなにか」がわからなくなることに似ていると思う。
カエルは、解剖した瞬間に死ぬのだ。
2022年05月20日
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