リライトのコツは、
全体の構造を把握しながらやることだ。
骨に当たるものと、肉に当たるものをまずは腑分けしよう。
骨の最たるものは、
第一ターニングポイント、第二ターニングポイントだ。
これが境目になり、一幕、二幕、三幕を区切る。
当初思っていたものと、
真の第一第二ターニングポイントが違う、と考え直すこともあるし、
新設したそれに、前の何かを混ぜたりすることもある。
それは背骨のようなものだ。
ほかがどんなに出来が良くとも、
背骨が曲がっている生き物はいずれ死ぬし、
美しくないし、つまりは機能していない。
それが骨だとしよう。
さらに骨になる部分はあるか?
どんなストーリーになるかはわからないが、
そのストーリーにとっての重大ポイントというものがあるはずだ。
いくつあるかもそのストーリーによるが、
1個か2個というわけではないと思う。
数個はあり、多ければ10程度はあるだろう。
それらを固定しよう。
それを固定して他を動かしたり、
他の部分を別の場面に書き直すのだ。
固定するのを骨となるシーン、
その他を肉のシーン、と仮に呼ぶ。
骨を固定して、
肉を色々と動かしたり、足したり引いたり、
ニコイチにしたり、枝分かれさせたりと、
可塑的に色々やってみるということだ。
骨が変わっていなければ、
肉で多少の機能は変わるが、
大きくは同じストーリーだといえる。
肉付けが違うだけで、
同じ人間が太ったりやせたり、筋肉質になったり運動をさぼったりしたようになるだけで、
アイデンティティーは同じだと思われる。
(多少は違うけど)
骨を変えるのは、アイデンティティーを変えることだ。
まったく別の生物、カタチになるわけで、
別の話になる、ということだ。
原作風魔の小次郎と、
ドラマ風魔の小次郎は、
肉が違うだけの骨が同じストーリーである。
そういう感じ。
まあ黄金剣関係は骨が変わっているから、
そこはまったく同じではないが、
おおむね同じストーリーを見ているという感覚は、
骨がほとんど変わっていないことが大きい。
もし風魔と夜叉と第三の一族のみつどもえのストーリーにしたり、
項羽が死ななかったり、
霧風が活躍しなかったり、
武蔵が麗羅を殺していない、
などのアレンジがあったら、
原作とは別の世界線になってしまったと感じるだろう。
それは違う骨になったからだ。
同様に、
自分のストーリーをリライトするときは、
骨をいじっているのか、
肉をいじっているのか、
自覚しながらやることだ。
逆にいうと、
「このストーリーの骨は何か?」
を的確にとらえているか、
ということなのだ。
骨の定義は、
「その場面を大幅に変えてしまったら、
ストーリーのアイデンティティー(同一性)が保たれなくなるもの」
という定義でいいだろうね。
これを変えたらアカンやろ、
というのを変えてはいけないのだ。
しかし、
リライトの際は、
その骨がどれなのか、
まだ分かっていないときもある。
だから「前の稿のほうがよかったな」という現象がまれによくあるのだと思う。
きっと、骨をいじってしまったんだね。
骨をいじる前に、肉を動かしてみよう。
新しい場面にしたり、
設定を変えてもいいくらいだ。
出番を変えてもいい。
骨さえ変わらなければね。
肉は柔軟性がある。
多少変えたって、
同じストーリーというアイデンティティ―は保たれるというものだ。
今やっているこのリライトは、
骨ごと変えて、まったく別のストーリーにしようとしているリライトか?
それとも、
骨はそのままキープして、
肉付けを変えようとしているリライトか?
その目的があやふやなままリライトをすると、
迷路にはまるぞ。
なんか面白くなくなった、
なんか面白くなった、
だけのアテモンになってしまう。
骨がよくないから骨を変える。
骨はいいから骨はキープする。
肉を変えることでよりよくする。
肉はそのままのほうがいいなら、
それは肉でなく骨だったのだ。
あるいは骨だと思っていたものが、肉でもいいか、
となるかもしれないわけだ。
どれが骨で、どれが肉に当たるのか?
それは読解力と関係してくるね。
自分の書いたストーリーを客観的に見れていないと、
どれが骨でどれが肉かわからなくなる。
全部大事だから全部骨に見えてしまう現象もよくある。
肉と骨を見極めて、
客観的に解剖して改造していかないと、
キメラになってフランケンになって、
ついには死肉のつぎはぎになり、
ストーリーは死体になるぞ。
そして「前のほうがよかった」と単純に戻り、
問題を抱えた脚本だけが次へ進むことになる。
時間だけが浪費されたことになるわけだ。
それはリライトのやり方を知らないのだね。
2022年05月18日
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