2022年05月24日

人生というモデル

物語はとある人生を描いたものである。
そしてそれは架空である。
つまり、それは「作者が人生だと思っているもの」の再現である。

その人生というモデルについて。


人生にはいろいろあり、
ある人が人生と考えているものと、
別の人が人生と考えているものが同じとは限らない。
それはいろいろな人が世界にいることの証明だ。

極論、仏教徒と、キリスト教徒では、
人生の目的も、世界の構造の把握の仕方も違う。
無宗教でも同じである。
特定の世界観に浸されていないだけ、
異なる様相としては宗教より複雑だ。

日本人の世界観や人生観は、
なんとなく共通のものがあるけれど、
同じものではない。
その自由さ、あいまいさは日本の魅力のひとつではあるだろう。

で、
作者が人生だと思っている人生モデルと、
観客が人生だと思っている人生モデルが、
大きく異なるときを考えよう。

人生モデルが似ているときは、
観客は違和感を生じない。
ああ、まあ、人生ってこうだよね、
という再確認の上に認識や解釈は存在する。

現代社会を舞台にしていれば、
現代の価値観、人生モデルを共通認識にしているだろうし、
パターン化されたフィクション、
ヒーローものとか、刑事ものとか、
異世界転生ものとか、
店の話とか、スポーツものとか、
そういうものはある典型的な人生モデルがあり、
それを前提として話はすすむ。

そうでないときは?

つまり、オリジナリティあふれるものをつくりたいときは?

つまり、作者が提示する人生モデルが、
従来のものとはまったく違う、
新しいものであるときは?


まず観客は、
自分の人生モデルと異なるものが現れたとき、
「それがリアリティがあるのか」
を気にする。
無意識に、それは使える価値観なのかを判定しているからね。

「これは実在の人物の物語である」という保証があれば、
思考停止して、そうかリアルか、
と勝手に納得してそれを楽しもうとするのだが、
フィクションであるとわかっていると、
「それはリアルなのか?」をまず考えてしまうのだ。

人は、自分に似たものしか理解できない。
宇宙人の人生は理解できない。

異なる目的や世界観がかけ離れすぎているものは
理解できない。
外国人や異宗教すぎるのが理解できないのと同様だ。

人間の、自分に似た人生しか理解できないのだ。

そういう人たちから見て、
「そんな都合のいい人生あるわけないじゃん」
「それはおかしくない?」
となるものは、
まず「信用に足らないものである」として切られてしまうことに注意せよ。

だからリアリティが必要なのだ。

リアリティは、その本当らしさが面白いのではなくて、
観客の信用を得るためにある。
「それは架空の世界の出来事かもしれないが、
この人生は本当っぽい」
と思わせないと、
まず解釈の俎上に乗らないのである。

まったく架空のまったく架空の人生、
たとえば宇宙人のことは、わからない。
しかし、
自分の知っているリアリティある人生ならわかる。

感情移入のコツは、
こうしたところにある。

まったく知らない宇宙人の人生だけど、
たとえばローンのために、くだらない上司にも愛想笑いをする、
というものがあれば、宇宙人も大変だなあと思い、
なんだか似ている気がするわけだ。

まったく知らない動物の人生だけど、
愛した異性が死んだとき、
ずっとその場を離れない、
なんてことがあれば、その動物の気持ちがわかるわけだ。

そうした観客の中の人生のモデルと、
架空の人生のモデルが重なったときに、
人はリアリティを感じるわけだ。

あなたの中の人生モデルは、
おそらくあなたの体験した人生から導き出されたもので、
それが意識的(こういう人生っていいよね)にも、
無意識的にも(人生ってこういうものでしょ、
あるいはこういう人生だったらよかったのに)にも、
表れてしまうものである。

だから、絶対的な真実だと思い込んでいることがとても多い。
ところが観客は、あなたの人生を体験していない、
ということを知ろう。

あなたとは別の人生を歩んできて、
あなたとは別の人生モデルを持っている人々である、
という風に考えよう。

あなたの創作した物語は、
そうした人々に鑑賞される、
ということを念頭に置こう。

もしあなたの周りの、価値観の近い人たちだけがわかる、
説明不要の人生モデルを使っていて、
「わかるー」というものを書いているならば、
クラスタが狭すぎると僕は思う。

もちろん、同人誌やその他狭い領域、
たとえば同年代だけがわかるもの、
などに浸っていたいならば、まあそれもよしだ。
同じ価値観の中で遊んでいることは楽しい。

だけど外界に出て、外の世界で勝負するならば、
「自分の人生モデルと異なる人に、
自分の提出した人生モデルを納得させる過程」
が必ず必要だということを想定しておくとよい。

「なぜこの人がここでこういうことを言う(する)のかわからない」
「リアリティがない」
「常識がおかしい」
などの批判が来るのは、
シナリオが読めていない人もいるかもしれないが、
人生モデルが異なる人たちと、
自分の人生モデルが齟齬を起こしている、
ということに気づくべきだ。


どういう人生モデルの人たちが、
自分の人生モデルの部分の、
どこを理解していないのか、どこに納得がいかないのか、
ということを探ったほうがよい。

それは直接感想が聞ける場があると最高だ。
ネットで探ることも可能だけど、
そこまで深く考察している人はまれなので、
鵜呑みにすると「人生モデルが異なることの齟齬」
まで到達しないと思われる。
これは意識に現れたことではなく、
無意識で判断していることが多いので。

もちろん、
作者のメアリースー的な甘え(自分で解決せずに、
すごい誰かに解決してもらって、
オイシイところだけ味わいたい)とか、
ご都合主義に陥っている部分は、
是正するべきだろう。
それは他人に提示する人生モデルとしては、
「甘えた人生」だからね。

そうではなくて、
異なる人生モデルを持っている対等の立場として、
「こういう人生モデルがございまして」と、
とあるものを提示している場なのだ、
ということを理解すると、
異なる人生モデルを持つ人たちに対して、
どうすればそれを早く理解できるのか、
いいと思ってもらえるのか、
という戦略を考えることができると思う。


つまり、
これは、「これはこのような人生モデルのお話である」
ということに対して、
もっとも客観的になっていないと出来ない、
最後の戦略であるわけだ。

実のところ、
ここまで客観的になっていないと、
物語をストーリーテリングすることは難しい。

だって同質の人に話すのではなくて、
異なる人たちに向かって話すわけだから。
ある物語を、
異なる人たちに向かって、わかりやすくなるように、
納得しやすいように、
変形加工して出したほうがよいならば、
そうするべきなのだ。

たとえばよくある女子の人生モデル
「甘いものがいつも欲しいの」は、
おっさんには通じない。
それだけで食べ物や食事の嗜好もかわってくるし、
夜の過ごし方も変わってくる。
それは相容れないクラスタだ。

双方を差異を認識した上で、
お互いの共通点を探りながら理解させていくわけだ。



そこまで客観化できて、
はじめて第一文字から語ることができる。

もちろん、第一稿で、
そこまで客観化できている場合はないだろう。
もっと自分よりの話になっているはずだ。

だから、第二稿以降で、
これはこのような人生モデルを語っている話なのである、
それがいいと思われるためには、
どこで信用されるべきか、
どこでリアルだと思ってもらうべきか、
どこでこれはよいと思ってもらうべきか、
という部分について、
客観的でなければならない。


主人公の人生モデルだけでなく、
脇役の人生モデルもそうだし、
敵の、否定するべき人生モデルもそうだ。

それらが、人生として存在しててもかまわない、
人生としておもしろい、
人生として見習うべき価値がある、
のようになるには、
どういう戦略で心に入っていけばいいだろう、
ということを考えられるか、
が、客観化できている戦略というものだ。


第一稿を書き終えたときは、
まだ興奮状態で、
そんなことを客観視している余裕はないだろう。
それはわかるので、
そうじゃないときに、
落ち着いてそこまで考えられるかな、
ということである。

第一稿が情熱だとしたら、
第二稿は冷静である。
情熱と冷静との間で、すべてはコントロールされるべきだ。
そして、どちらも兼ね備えた版が、
完成に近くなってゆく。


この物語は、
人生とはこういうものだという、
このような人生モデルを提示している。

そういう風にとらえてみよう。

それはあなたの赤裸々な人生観になることが多く、
それはとても恥ずかしいものであろう。
だから作者と主人公を離すとよいのだ。

あくまで作者の人生観はこのようであるが、
それとはちょっと違うこのような人生モデルを描いたんです、
となると、客観的に戦略を考えられるからね。



ちなみに僕が今書いているものは、
元銀行員の運転手の話だ。
僕は銀行員であったことも、
運転手であったこともない。
彼らの人生モデルは、今の僕の価値観とは異なることもよくわかっているし、
彼らの職業病も、取材した範囲レベルしかわかっていない部分もある。

だけど、それとは関係ない人生のエピソードを持ち込むことで、
「この人も私たちと同じような人生なんだなあ」とわかるようにしてある。
僕は銀行員や運転手を描きたいのではなくて、
そのような人生を描きたいわけだ。


あなたの物語は、
どのような、「人生とはこういうものである」という、
人生モデルを提供しているか?
言葉で説明してみよう。

それは、あなたと異なる価値観の他人から見て、
どう見えている?
posted by おおおかとしひこ at 00:24| Comment(2) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
おっしゃっている内容とは少しずれる感想で恐縮ですが、

>「これは実在の人物の物語である」という保証があれば、
>思考停止して、そうかリアルか、
>と勝手に納得してそれを楽しもうとするのだが、

最近のハリウッド映画とかでやたらと「実話を元にした」映画が多いのもそのためでしょうね。
「実話を元にした」といいつつ調べてみると「随分実話とは違う話だし、違うキャラじゃねーか」ということもしばしば。
「実話です」というのを前提に観客を武装解除させる手なんでしょうね。
日本でいうと「一杯のかけそば」とか「余命1ヶ月日の花嫁」とか。

こんな話とかこんなエキセントリックなキャラいるわけねー、というつっこみを「だって実話だもん」で突破しているというか。

ずるいなと思いつつ、いい手だな、とも感じています。
Posted by ふじ at 2022年05月24日 15:08
>ふじさん

大体そういうことです。
僕は昔から「実話をもとにした」ものは好きじゃなくて、
思い切り飛べないじゃん、なんて思ってしまうくちですが。

そもそももっと昔に戻ると、
ドラマや映画であったことは全部ほんとだと思ってた人もいるわけで、
無駄にリテラシーがあがると不幸だなあとも思いますね。

でも一旦リテラシーが上がった人が、
リテラシーの低い人を詐欺で騙すのもなあ、
と思うので、
振り切ったフィクションの方が僕は好みです。
Posted by おおおかとしひこ at 2022年05月24日 16:09
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