2022年05月31日

映画的瞬間は、映画ではない

脚本論からの立場の話だが。


よーし映画を作ろうと思うときに、
真っ先に思うのは、
「映画みたいな場面」だろう。

夕焼けの美しい光線だとか、
書類が舞い散る瞬間だとか、
観客に囲まれて称賛される場面とか、
二人で踊り、美女を抱き寄せる瞬間であるとか、
高級スポーツカーから降りてくる瞬間だとか、
鳩の群れが飛び立つ瞬間とか、
車がチェイスして横転する瞬間だとかだ。

昔そんな映画の場面が好きで、
興奮した人は、
自分でやろうとしたときに、
それを再現しようとする。

子供が親を真似るようなものだ。
かつて学習したものが出るわけだね。

それを書いて、よーし映画的なものが書けたぞー、
って思っているのは二流だ。


それは映画の絵の具だ。
赤とか青とか黄色なのだ。
「何を描いたか」ではなく、
何色の絵の具で描いたか、でしかない。

映画的な瞬間を集めただけのシナリオは、
つまり、
赤と青と緑を使った絵を描きました、
しかやっていない。

何を描いたの?どう見て欲しいの?
どこがオリジナルなの?
には、何も答えられない。

つまり、映画的な瞬間を集めたシナリオは、
ただのガワである。
ファッションだけ真似して中身がスカスカなのだ。

嘘だと思うなら、
あなたが映画的な瞬間だと思うものを30ほど列挙してみなさい。
それをどう並べ直しても、
ストーリーは出来ないだろう。


ストーリーとは何かについては他の記事に譲るとして、
シナリオとは、
「とあるストーリーを、
映画という絵の具で描いたもの」
だと言えるのではないか?

小説的な絵の具で描けば小説になるし、
演劇的な絵の具で描けば演劇になる、
というだけのことじゃないかと思う。

「映画ならでは」なんてよくいうけど、
夕日の美しい光線が撮れれば、
もうそれは映画にしかない絵の具だと思うよ。

あとは、
その絵の具が、
描こうとする内容に対して、
バッチリはまって使われてるか、
だけだと思う。


名作を沢山見ろという経験則は、
絵の具を沢山みておけということと、
内容と絵の具の組み合わせのパターンを見ておけ、
という二つの意味に他ならない。

男と女が別れる場面を、
雨の中という絵の具で描けば映画的になるし、
二人が同棲してた何気ない部屋という絵の具で描くなら、
ニューミュージックやフォークになるだけの話だ。


あなたは、
映画的な絵の具を紙に塗ったから満足なのか?
それを落書きという。

そうではなく、
確固たる物語を創作して、
その内容を、
上手に映画の絵の具で描くべきなのだ。

そのときに、
映画的瞬間がいくつか出てくることだろう。
小説にはない、映画ならではの場面である。


結果の外形が同じでも、
その意味するところは全く違う。

中身がなくてファッションだけ真似したやつと、
中身を表現するにはこのファッションが最も適切だ、
とギリギリまで考えたやつは。

その、中身と選択こそが脚本であり、
それが表現している映画的瞬間は、
ただの絵の具だ。
赤が綺麗な絵ですね、くらいの評価しか得られず、
人の心に意味とともに入り込むことはないだろう。

絵の具は監督の方が上手だから、
だから別の絵の具で描かれても大丈夫な設計をすることが、
本来は脚本に求められていることである。
レシピは出来ているが、
それは関西風にも関東風にもイタリア風にも中華風につくっても、
うまいみたいなことだ。


映画的瞬間に呑まれるな。
ただの流行りのファッション自己満足だぜ。

よく書けてる場面だと自分が思うものこそ、
その危険があるぞ。
それは酔ってるってことだからね。
posted by おおおかとしひこ at 09:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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