脚本論からの立場の話だが。
よーし映画を作ろうと思うときに、
真っ先に思うのは、
「映画みたいな場面」だろう。
夕焼けの美しい光線だとか、
書類が舞い散る瞬間だとか、
観客に囲まれて称賛される場面とか、
二人で踊り、美女を抱き寄せる瞬間であるとか、
高級スポーツカーから降りてくる瞬間だとか、
鳩の群れが飛び立つ瞬間とか、
車がチェイスして横転する瞬間だとかだ。
昔そんな映画の場面が好きで、
興奮した人は、
自分でやろうとしたときに、
それを再現しようとする。
子供が親を真似るようなものだ。
かつて学習したものが出るわけだね。
それを書いて、よーし映画的なものが書けたぞー、
って思っているのは二流だ。
それは映画の絵の具だ。
赤とか青とか黄色なのだ。
「何を描いたか」ではなく、
何色の絵の具で描いたか、でしかない。
映画的な瞬間を集めただけのシナリオは、
つまり、
赤と青と緑を使った絵を描きました、
しかやっていない。
何を描いたの?どう見て欲しいの?
どこがオリジナルなの?
には、何も答えられない。
つまり、映画的な瞬間を集めたシナリオは、
ただのガワである。
ファッションだけ真似して中身がスカスカなのだ。
嘘だと思うなら、
あなたが映画的な瞬間だと思うものを30ほど列挙してみなさい。
それをどう並べ直しても、
ストーリーは出来ないだろう。
ストーリーとは何かについては他の記事に譲るとして、
シナリオとは、
「とあるストーリーを、
映画という絵の具で描いたもの」
だと言えるのではないか?
小説的な絵の具で描けば小説になるし、
演劇的な絵の具で描けば演劇になる、
というだけのことじゃないかと思う。
「映画ならでは」なんてよくいうけど、
夕日の美しい光線が撮れれば、
もうそれは映画にしかない絵の具だと思うよ。
あとは、
その絵の具が、
描こうとする内容に対して、
バッチリはまって使われてるか、
だけだと思う。
名作を沢山見ろという経験則は、
絵の具を沢山みておけということと、
内容と絵の具の組み合わせのパターンを見ておけ、
という二つの意味に他ならない。
男と女が別れる場面を、
雨の中という絵の具で描けば映画的になるし、
二人が同棲してた何気ない部屋という絵の具で描くなら、
ニューミュージックやフォークになるだけの話だ。
あなたは、
映画的な絵の具を紙に塗ったから満足なのか?
それを落書きという。
そうではなく、
確固たる物語を創作して、
その内容を、
上手に映画の絵の具で描くべきなのだ。
そのときに、
映画的瞬間がいくつか出てくることだろう。
小説にはない、映画ならではの場面である。
結果の外形が同じでも、
その意味するところは全く違う。
中身がなくてファッションだけ真似したやつと、
中身を表現するにはこのファッションが最も適切だ、
とギリギリまで考えたやつは。
その、中身と選択こそが脚本であり、
それが表現している映画的瞬間は、
ただの絵の具だ。
赤が綺麗な絵ですね、くらいの評価しか得られず、
人の心に意味とともに入り込むことはないだろう。
絵の具は監督の方が上手だから、
だから別の絵の具で描かれても大丈夫な設計をすることが、
本来は脚本に求められていることである。
レシピは出来ているが、
それは関西風にも関東風にもイタリア風にも中華風につくっても、
うまいみたいなことだ。
映画的瞬間に呑まれるな。
ただの流行りのファッション自己満足だぜ。
よく書けてる場面だと自分が思うものこそ、
その危険があるぞ。
それは酔ってるってことだからね。
2022年05月31日
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