2022年06月07日

間とは何か

なぜ間があるのか。
なぜ何もない時間があるのか。
退屈とは何が違うのか。


答えは簡単で、
「その時間に、理解するため」だ。

もし間がないものがあったら、
理解する前に話が先に進んでしまうだろう。

誰が理解するのか?
その場にいる登場人物全員。
(仮に理解からおいていかれる、という話ならば、
ある人物が理解する時間と、
別の人物が理解する時間に差をつくり、
間を調整すると良い)

そして、観客全員である。

間が長いと退屈する。
それは観客が理解するより間が長いからだ。

間が短いと面白い。
それは、観客が理解するのにちょうどいい間だからだ。
間の邪魔な退屈が削がれているからである。

だから、間が長いとか、短いのは、
「主観的時間」であり、
客観的時間ではない。

間を3秒取れとか、7秒がいいぞとか、
3分に4秒休めとか、
そういう数字的にする意味はない。

そうではなくて、
「これまでの理解を超えて、
話がだいぶ進んだ時には、
じっくりと理解の間を取るとよい、
逆に、理解できる範囲ならば、
間を取らずに進めてよい。
なんなら中間を省略してもよい」
という原則が導かれると思う。

女子たちがツイッターで、
「まって」というのは、
理解が追い付いていない、ということを意味している。

理解するだけの間を取ってあげれば、
「まって」はなくなり、
ああそうなのね、と話が進むだろう。


つまり、間は、客を見ているということになる。
どこで切るか、どこで待つか、
ということなのだ。


役者はつい間を取った芝居をしがちだ。
それは、「自分が理解する時間」の間だったりする。
うまい役者だと、
「自分の役が理解して語る言葉」のときは間を自分用にとり、
「相手の役が理解する言葉」のときは間を相手用にとる。

あるいは「どちらも理解しないまま進む」という文脈のときは、
間を短めにして畳みかける芝居をする。
三文役者は、自分が映る時間が長くなるというだけの理由で、
間をたっぷりとる田舎芝居が多い。

つまり、間とは、そのキャラクターが理解するだけの時間と、
(役者と監督と編集者によってコントロールされる)
観客が理解するだけの時間の、
二種類が存在する。


間を取るにはどうしたらいいか?

脚本的には、「……」を増やすとよい。
「……どうだ」とか、「……どうだ……」
などと増やしていくといいだろうね。

「分かるか?……俺の言葉が」
など、言葉と言葉の間に間を取ってもいいよ。

あるいは、ターンを増やしてもよい。
「〇〇のことがわかるか?」
と一発でいかずに、
「わかるか?」
「なにが?」
「〇〇のことだ」
と相手役に聞き役をやらせると、
間を取ることができるよ。

まああまりやりすぎると、
「迎えに行く」というご都合主義になるため、
毎回これになるのはお勧めしないが。

あるいは、あることがあって、
とてもショックを受けて考えてしまう、
というような間の部分は、
「……」というだけのセリフを書いておくとよい。


逆に、間を盗みたかったから、
こういうものを切っていくとよい。
ターンを短くして手数を減らしても良い。

セリフをすべて言わずに、
分かったていで次へ進めたっていいのだ。

あるいは、
そういうことを理解したのはこのシーンの前だとして、
理解したあとの行動から描いてもよい。
すべてを切ることが可能だ。


どうしても間がほしいとき、
実景などを挟んで一回休むことがある。
押井守は、意図的にそうしたシーンをつくることがあるという。
概念的に難しいことを扱う押井の映画は、
そうした休みシーンをつくっておかないと、
観客の理解が追い付かないところが出てくるのだろう。


間を切っていくと、
どんどんテンポがあがり、
さっさと本題から始められるだろう。

間はなんのためにあるか。
観客のためにある。
演劇だと、生の客を見ながら役者は間を決められる。
映画や小説では、
段落や構造で、間を決めなくてはならない。

セリフの組み方で小さな間を調整する。
段取りやターンでもう少し大きな間を調整する。
シーンの組み方で、もっと大きな間を調整する。
posted by おおおかとしひこ at 00:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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