なぜ間があるのか。
なぜ何もない時間があるのか。
退屈とは何が違うのか。
答えは簡単で、
「その時間に、理解するため」だ。
もし間がないものがあったら、
理解する前に話が先に進んでしまうだろう。
誰が理解するのか?
その場にいる登場人物全員。
(仮に理解からおいていかれる、という話ならば、
ある人物が理解する時間と、
別の人物が理解する時間に差をつくり、
間を調整すると良い)
そして、観客全員である。
間が長いと退屈する。
それは観客が理解するより間が長いからだ。
間が短いと面白い。
それは、観客が理解するのにちょうどいい間だからだ。
間の邪魔な退屈が削がれているからである。
だから、間が長いとか、短いのは、
「主観的時間」であり、
客観的時間ではない。
間を3秒取れとか、7秒がいいぞとか、
3分に4秒休めとか、
そういう数字的にする意味はない。
そうではなくて、
「これまでの理解を超えて、
話がだいぶ進んだ時には、
じっくりと理解の間を取るとよい、
逆に、理解できる範囲ならば、
間を取らずに進めてよい。
なんなら中間を省略してもよい」
という原則が導かれると思う。
女子たちがツイッターで、
「まって」というのは、
理解が追い付いていない、ということを意味している。
理解するだけの間を取ってあげれば、
「まって」はなくなり、
ああそうなのね、と話が進むだろう。
つまり、間は、客を見ているということになる。
どこで切るか、どこで待つか、
ということなのだ。
役者はつい間を取った芝居をしがちだ。
それは、「自分が理解する時間」の間だったりする。
うまい役者だと、
「自分の役が理解して語る言葉」のときは間を自分用にとり、
「相手の役が理解する言葉」のときは間を相手用にとる。
あるいは「どちらも理解しないまま進む」という文脈のときは、
間を短めにして畳みかける芝居をする。
三文役者は、自分が映る時間が長くなるというだけの理由で、
間をたっぷりとる田舎芝居が多い。
つまり、間とは、そのキャラクターが理解するだけの時間と、
(役者と監督と編集者によってコントロールされる)
観客が理解するだけの時間の、
二種類が存在する。
間を取るにはどうしたらいいか?
脚本的には、「……」を増やすとよい。
「……どうだ」とか、「……どうだ……」
などと増やしていくといいだろうね。
「分かるか?……俺の言葉が」
など、言葉と言葉の間に間を取ってもいいよ。
あるいは、ターンを増やしてもよい。
「〇〇のことがわかるか?」
と一発でいかずに、
「わかるか?」
「なにが?」
「〇〇のことだ」
と相手役に聞き役をやらせると、
間を取ることができるよ。
まああまりやりすぎると、
「迎えに行く」というご都合主義になるため、
毎回これになるのはお勧めしないが。
あるいは、あることがあって、
とてもショックを受けて考えてしまう、
というような間の部分は、
「……」というだけのセリフを書いておくとよい。
逆に、間を盗みたかったから、
こういうものを切っていくとよい。
ターンを短くして手数を減らしても良い。
セリフをすべて言わずに、
分かったていで次へ進めたっていいのだ。
あるいは、
そういうことを理解したのはこのシーンの前だとして、
理解したあとの行動から描いてもよい。
すべてを切ることが可能だ。
どうしても間がほしいとき、
実景などを挟んで一回休むことがある。
押井守は、意図的にそうしたシーンをつくることがあるという。
概念的に難しいことを扱う押井の映画は、
そうした休みシーンをつくっておかないと、
観客の理解が追い付かないところが出てくるのだろう。
間を切っていくと、
どんどんテンポがあがり、
さっさと本題から始められるだろう。
間はなんのためにあるか。
観客のためにある。
演劇だと、生の客を見ながら役者は間を決められる。
映画や小説では、
段落や構造で、間を決めなくてはならない。
セリフの組み方で小さな間を調整する。
段取りやターンでもう少し大きな間を調整する。
シーンの組み方で、もっと大きな間を調整する。
2022年06月07日
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