前の要素分解で、ひとつだけ要素に入っていないものがある。
テーマである。
テーマは、結局、
大掴みの要素を並べたり、入れ替えを考える次元に存在するのではなく、
その上位の次元に存在するような気がする。
それらの大掴みの要素を、
俯瞰したときに、全体に見えているもの、
がテーマな気がするんだよね。
ストーリーの要素を大づかみに考えているときは、
時計の部品を組み立てているような感覚で、
テーマを考えるときは、
「時計とは時間を見るものである」
みたいなところで見ているような感じ。
部分と全体、
部分の機能と全体の意義、
みたいなことだ。
じゃあ、テーマは部分からならないのか、
となると、部分の集成体で構成されるんだよね。
テーマの逆からはじまって、
最終的なストーリーの結果は、
その価値観を否定するように終わって、
「最初のこうした価値観は、
このように否決されたため、示するべき価値観とは、」
〇〇のようなものである」
という感じ。
その当初の否定するべきアンチテーゼ、
テーゼの確定の仕方、提示の仕方で、
テーマの構造は決まると思う。
そしてそれが、ストーリーと不可分になっているような構造でないと、
「このストーリーは、〇〇ということを全体で言っている」ものにならず、
「ただテーマを言葉で演説しているだけ」になってしまう。
演説を避ける方法はひとつあって、
冒頭や最初のほうに、
主人公やほかの登場人物に、
Pという主張をさせておくことだ。
それがどこかで否定されて、
最終的には、Pが正しかった、
という風に話をつくるとよい。
そうすると、仮にPを語るところが演説であったとしても、
有言実行さえすれば、
Pというテーマの話である、
という風な構造になるだろう。
(もちろん、not Pから始めて、
それを否定させるようなストーリーでもよい。
背理法的だ)
問題は、有言実行の、
「実行」の部分である。
ストーリーというのは行動で示すものであった。
Pで「愛こそすべて」と言いたいならば、
「愛してる。お前がすべて」とセリフで言うのではなく、
その証拠を見せてみろ、ということがあるべきだ。
(有名な「潮騒」での、
炎を超えて私のところに来る、
というシーンは、発明された当時はすごかったろうなあ。
愛を炎越えで証明するんだもんね)
有言「実行」が大事なわけだ。
有言「無実行」でも、
有言「有言」でもいけない。
お前言うてるだけやんけ、やってみろや、
ということなのだ。
主人公は他人である。
他人が言っているだけで実行しないならば、
口だけのやつ、ということにしかならない。
三人称物語の主人公は他人である。
信用されるには、やって見せるしかない。
さて、これらは、大掴みの要素で把握できないわけではない。
前記事で言及した要素には入っていないだけのことだ。
大掴みの要素分解をしているとき、
これはこうなったほうが、よりテーマを鮮明に見せられるぞとか、
これをこうしたほうが、否決すべき前提をうまく見せられるとか、
前提が出るのが遅いとか早いとか、
テーマの決定するタイミングが遅いとか早いとか、
もっとダイナミックに決まりたいとか、
もっとじんわり来たいとかは、
要素を入れ替えたり、頭の中で再構築するときに、
考慮にいれるべきことである。
ただのストーリー展開を考えているだけではなく、
テーマに配慮しながら要素を頭の中で展開、
検討しなければならないので、
二重にやることが増えて、
頭の中は大混乱になりがちだ。
だから一回、
ストーリー要素を頭の中で一通り納得がいくまでつくったら、
今度はテーマ方面で、
再検討するとよいと思う。
ある構造が、見方によって変わって見える、
ということである。
だから、
似たような構造のプロットを、
頭の中で何度も通すことになるんだよね。
外在化させた紙やメモでは、
そこまでの瞬間的な可塑性がない。
だから、一番練るスピードが速い、
頭の中でやろうぜ、
ということが趣旨である。
結局、こうやってああやってこうなる話なのだが、
これって何をテーマとして語っているんだっけ?
と、俯瞰してものごとを考えないと、
よくわからなくなる。
構造としては簡単だ。
Pとnot Pが対決して、Pが勝利する。
一見無理なPを前提としていて、Pをその通りと証明する。
not Pから始めて、逆転したPというものにたどり着く。
この三種類しかないんじゃないかなあ。
もちろんこれは組み合わせることができる。
第一のパターンは対立するキャラクターを想定しているため、
第二、第三のパターンでも使うことができる。
アンタゴニスト(敵対者)である。
主人公は敵対者の主張の「逆」が結論である。
影がないと光がわからないみたいなことだ。
敵が「痴漢し放題」が主張ならば、
主人公の主張は、それをわざわざ言わなくても、
「痴漢反対」になるだけのことである。
もちろん、どちらも主張してもよいし、
どちらかが主張するだけでもよい。
(どちらも主張しないと、訳が分からなくなるだろう)
そして、有言実行でそれを証明することである。
だから単なる、反対や賛成はテーマになりにくい。
「実際にそれを証明する」がやりにくいからだ。
戦争反対を証明することは難しい。
平和はいいでしょ、だから反対なんです、
となるならば、
「平和はいいぞ」がテーマになるはずだ。
つまり、テーマは、ずっと僕が言っているが、
「テーゼの形になるべきである」ということだ。
文章、用言で終わるべきだということ。
体言止めで終わるものは、テーマになりづらいのだ。
テーマは愛、なんて名詞止めではなくて、
愛は素晴らしい、愛はまじいいぞ、
などでよいということだ。
愛は醜く、そしてすごい、でもいいよ。
愛の何を証明するのか、ということだからね。
この世に愛は存在する、という存在証明でもいいよね。
でもそれは、論破じゃなくて、
実行で証明されるべきものなんだよね。
こうした、要素とテーマのまわりをぐるぐる回っていると、
「物語で扱われるテーマは、
すべてのテーマ集合の中の一部である」
ということがわかるのではないかと思う。
たとえば絵画や写真のテーマの中で、
物語では扱えないものがあるということだ。
たとえば、
絵画や写真ではあるテーマに基づいた総覧だけで、
作品になることがある。
「全国にある寿司ネタ全部」
という写真集は、それだけで価値があるよね。
しかしそれは物語にはならない。
ストーリーとは変化や展開のことであり、
スプレッドではないからだ。
絵画や写真には、この世のすべてを総覧したい、
消えていく時間軸のものをすべて止めて無限に観察したい、
という欲望に答えるものがある。
それは時間軸を持ち、
消えていく運命の物語にはないものである。
さて。
じゃあ、ある立場から、
ある目的をもって、
行動して、結果が出て、
次にまた行動して、結果が出て、
……
最終的な行動をして、
最終的な結果が出たとしよう。
主人公のそれで、
何が言えたのだろうか?
主人公は何をしようとして、
最初行動をはじめたのか?
それが成功(ないし失敗)したことで、
何が言えたのだろうか?
主人公が最初に言おうとしたこと
(ないしその逆)が、それになるはずだ。
じゃあ、立場と目的で、
それを表現できないか?となっていくわけだね。
こうして、要素で大掴みにテーマを構成することができるわけだ。
そして、これでもまだ零れ落ちるものがあって、
それが感情移入なんだよね。
次記事につづく。
2022年06月16日
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