尾崎豊の同級生のインタビューで、
こんなことがあったらしい。
「卒業」のサビ「この支配からの卒業」
に対して、
> 「アンタそんなに学校嫌だったの?なんか楽しくやってるように見えたけど」って。
歌い手は自分のことを語っている、
と解釈するのはリテラシーが低いと思うよ。
似たようなものに、
尾崎豊はわりとボンボンだった
尾崎豊は優等生だった
などがあり、
夜の校舎の窓ガラスを壊したわけでもないし、
盗んだバイクで走ったこともなかったらしい。
だから尾崎は嘘つきだというのは、
リテラシーが低いよな。
あの時は校内暴力が吹き荒れてたし、
支配はきつかったし、
辞めればいいという時代じゃなかった。
高校中退なんて人生の終わりで、
就職口なんて底辺しかなかった。
だから受験戦争といわれるくらい戦争だった。
みんな我慢して、それでも耐えられないから、
せめて(監視カメラのない時代に)窓ガラスを割りに行く。
些細な復讐のフィクションである。
その、時代の気分を読み取り、
誰にも言えない気持ちを詩にした功績は、
フィクションの使い手として、
全くもって評価するべきだ。
つまり尾崎豊の曲は、
尾崎豊自身の風景ではなく、
あの時代の集合的無意識の風景だ。
なぜ、
シンガーソングライターが、
自分のことを歌っていると思えるのだろう?
私小説が、その小説家の私生活暴露だろうか?
(まあそういう作家もいるだろうが)
大なり小なり、
商品や芸術として完成させるには、
嘘やフィクションをかまして、
整えられた形にしてるだろう。
こういう人は、
ヒカキンも普段あんなテンション高いと、
思い込んでいるのだろうか?
翻って、我々脚本家側である。
まさか、自分の何かを書けば作品になると思ってないよな?
我々はフィクションという大嘘をつく。
それが面白く、同時代的で、
今欲しいものであればヒットする。
それが作者と同一である必要性は微塵もない。
それは、
自分を隠してまで時代に迎合するべき作品を作る、
ことを意味しない。
時代に迎合しない、時代を変える、
旧来の枠組みにとらわれない、
全く新しい物語は、
自分と全く関係なくてもつくれる、
という話である。
もちろん、自分と近ければ、
執念深く最後までつくる原動力になるのは否定しないが、
それと作品性は関係がない。
自分と主人公を別人にしないと、
客観性をわすれて、意地になってしまう害悪の可能性が高い。
つまり、
自分と作品の距離を離すべきなのだ。
尾崎豊がそうでないわけがない。
国語教育の、
「作者の言いたいことを述べよ。」が悪い。
「この文章は何を言っているか考察せよ。」
でいいではないか。
大人になれば、謝意もないのに謝罪文を書くこともあるだろう。
作者の気持ちと文意は関係がない。
ただ出来上がったものと、それがさす意味があるだけだ。
尾崎を貶める人たちは、
嫉妬が入ってるんだよな。
それの方が、言いたいことダダ漏れだよね。
2022年05月24日
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