「学園に忍者が来て大活躍!」というテンプレを使った漫画は、
他にもたくさんあった。
風小次だけが、大人が存在しない不思議。
高校生たちが、
木刀を振り回して喧嘩して、
学園同士の覇権争いをする世界観は、
番長ものである。
そこに出てくる大人たちは、
厳しい体育教師(竹刀でしばく系)や、
内申点を厳しく言い渡す担任や、
生活指導の先生や、
あるいはうるさいPTAや親たちだろう。
ヤンキーものならば警察や刑事が、
「またお前か」「お前このままでいいのか」なんて
諭す場面もあったろう。
風魔は、こうした大人たちが存在しない世界である。
番長ものでは、
そうした大人たちの干渉があり、
子供達だけの世界に収まらぬような、
「この世界との接続感」があった。
なんだかんだ喧嘩ばっかしててもなんの得もないし、
じゃあヤクザになるのかというとそうではなくて、
賢い奴は大学へ行き、
バカはバカなりに地元の工場やバイク屋に勤めて、
意外と真面目になるとか、
そういう社会との接続までの、
ほんの数年間の踊り場のような時間が、
高校生の番長ものであった。
だからそこに出てきた大人たちは、
世間とはどのようなものか教える立場にあったように思う。
ところが、
高校生の頃は、
そうした大人たちの干渉を嫌がり、
「俺たちだけの世界」をつくりたがる。
それは本能的な欲望だろう。
それがあって猿は猿山から出て、
新しい文明を築いてきたのだろう。
風魔には、そんな感覚が渦巻いているように思う。
ことごとく教師は登場せず、
野球部の監督って出てきたかな。
学長は両方とも高校生(夜叉姫はセーラー服の年齢だよね?)だし、
おじいさまは故人だし、
風魔総帥は田舎で隔離されている。
(上京した子供にとっての故郷の親くらいの距離感)
ドラマをつくるとき、
その辺の大人をどう世界の接続点にするか、
わりと悩んだんだよね。
姫子には執事がいるていで出したんだけど、
風魔の世界に大人がいる違和感がすごかったんだよね。
だから結局第一話しか出てないと思う。
それは原作で総帥が一話しか出てないことと、
符合している気がする。
だから9話で「警察に相談した方が」
という姫子のセリフは、警察が画面に登場しなくても、
かなりインパクトがあったものだ。
警察?警察がこの世界にあるの?
いやあるだろ。警察のない世界があるのか?
というこの違和感よ。
高校生しか世界にいないという意味で、
拡張されたセカイ系みたいな感覚だよね。
夜叉編後は高校生とかどうでもよくなり、
世界の滅亡が学ランと木刀に託されている世界観なのだが、
それも、
「高校生同士の縄張り争いに、伝説の武器が登場する。
『世界の命運』の世界=このへんの学区内」
を、アレンジしただけなんだよね。
だからカオス皇帝すら、
皇帝と名乗るのに高校生なわけだ。
(もちろんカオスは年齢不詳であるが、40ではあるまい)
皇帝とはつまり、暴走族のリーダーであるところの、
エンペラーくらいの感覚なわけだ。
つまり高校生特有の、
「俺たちだけの世界でいたい」
という願望が、
煮詰まったものが風魔の世界観だといえる。
いわばSF番長漫画+高校生セカイ系なわけだ。
あの不思議なユートピアの感覚は、
つまり高校生が当時感じてた感覚に近い。
だから、
ドラマ版では、
「そんなところに大人を出すのは野暮だ」もありえるし、
「大人との関係を描き、
高校生忍者をよりリアルに描く」もありえた。
たとえば風魔たちを転校生にして、
先生の授業を受けることだって出来たはずだ。
そうしなかったのは、
なんとなく「大人はあの世界にいるべきじゃない」
という感覚があったからだろう。
そういえば原作では、
絵里奈の担当医は出て来ず、看護婦のみである。
徹底的に「権威のある大人の男」は、
排除されているように思う。
(なので担当医は男や権威をなるべく感じない人を使っている)
だからだろうか、
「すでにある権威のリーダーを倒し、
新たに世界を築くリーダーとなる」
すなわち父殺しによる成長物語を、
原作は否定しているように思える。
結局結末でも「この世界は永遠に続く」的な終わり方であり、
それは「卒業で高校時代のユートピアが終わるのはいやだ」
という高校生的な感覚を反映しているように感じる。
だが、
それではドラマにならん、
という僕の物語的感覚が、
父殺しの父役を竜魔に担当してもらうことで、
原作の枠組みを飛び越えすぎない塩梅で、
長兄に認められる(ないし超える)、
という物語性にしてあるつもり。
そのへんが、三話での竜魔との確執や、
十二話での「ゆくぞ風魔の小次郎」に、
込められているわけだ。
あんまりやりすぎてもそれは本題ではないため、
抑え程度に留めておいたけど。
(続編構想では、
父殺しが男の成長に必要なため、
その父を誰にするかで悩んでいた。
構想時点では、風魔総帥が死ななかった世界線にするか、
旅に出ていた次期総帥候補、
小太郎(小次郎の兄)が帰ってくる、
という設定を考えていた。
いずれにせよ原作改変がひどくなりそうなので、
抜け忍スタイルなら、竜魔が父役をできるかな、
などと考えていたのだ)
80年代は日本の黄金時代のひとつで、
「この今がずっと続けばいいな」って、
みんな思ってた時代だ。
(80年代中盤のSFアニメ「メガゾーン23」が、
それをどんでん返しに見事に使っている)
その同時代的感覚は、
原作に根を下ろしているなあ、
と改めて「なんで大人がいないんやろ」
と疑問に思って理解したことだ。
それはたとえば男アイドル集団に、
女が入って欲しくないと思う女子のドリームと同じだろうか。
女がいたら恋愛が始まってしまい、
この永遠のユートピアが崩壊してしまう、
ずっとこの夢を見させて、という感覚に近いのかしら。
だからBLなのかな、と理解できないまでも考えたりはする。
(僕は見ないけど、女アイドルグループに夢中な男どもも、
同じことを考えてるだろう。女子同士の百合的なものが人気なのもおなじくか。
ただし若い女は老けるから「卒業」に対して、
大してネガがないという非対称性がある。
このへんは永遠にアイドルやってたSMAPや嵐と異なるところ)
だから、
おそらく風魔の世界をきちんと閉じるには、
大人が必要な気がする。
あの世界が、忍びというアイドル空間にあるのではなく、
現実の大人たちがいるこの世界と、
どのような関係性にあるか、
ということを定めなければ、
「風のように生きよ!」で永遠化してしまう。
単純に敵の忍びに大人のリーダーがいたり、
現実世界で大人が何してるかがあればいいだけかもしれない。
報道カメラマンが偶然忍びの写真を撮ってしまい…
なんてよくある展開すらなかったよね。
もちろん、
それを僕が提案して勝手にやるのは越権行為なのでやらないが、
「どうやれば風魔はきちんと『終われる』のだろう」
と考えた時に、
ユートピアがユートピアでなくなり、
卒業してこの世界と融合する、
ということが、
高校生の終わりとして必要なのではないか、
などと考えた。
続編構想を当時していた時点では、
小次郎が人間としての姓を得る、
という「卒業」の仕方を考えていた。
そのことで風魔ユートピアから降りる、
という考え方だ。
そのとき、竜魔やその他風魔(霧風と小龍を殺すかどうかは、
難しい判断だ)は、
風の彼方に消えて、
あのユートピアはいまでもどこかで続いている、
しかしもうそこへの行き方がわからないが、
という終わり方がいいんじゃないかと思っていた。
そうすれば、小次郎以外は風のようにまだ生きている、
原作との折衷案になるかなあと。
それが風魔をうまく終わらせられるのか、
越権行為すぎるのかは、
議論が必要だと思う。
原作ファンのことを考えれば変えすぎだとも思うしね。
僕は霧風にも小龍にも生きててほしいが、
あの死に様の寂寥感こそ風魔である、
と思う人もいるわけで。
大人がいないことは、
つまりはピーターパン症候群だ。
ネバーランド的だから、
風魔ファンはずっと生き続けてるのかも知れない。
それがいいことなのか悪いことなのかは、
うーむ、なんともいえんなあ。
僕は、
ネバーランドはいつかなくなり、崩壊するべき派だ。
その思い出は人生の重要な基盤であるが、
そのユートピアがなくなってからが、
ほんとうの人生だと思うんだよな。
リンかけの「たった一度の今日という日」に匹敵する、
明確なテーマ性を持たないまま、
風魔は打ち切られてしまった。
その隙間の多さゆえに、ネバーランドはまだ残っている。
…そんなことをつらつらと考えたが、
結論は出ないので記録しておく。
僕は風魔をきちんと卒業したいんだろうなあ。
でもまだ出来ない高校四十年生みたいな感じなのだろう。
(昔の漫画にはよくそんな裏番でてきたよな)
2022年05月25日
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