どちらが大事だろうか?
機能している場面である。
機能している、とは、
「ストーリーが前に進む」場面のことである。
伏線として機能している、
彼の心情がわかることに機能している、
美しい風景で一拍置くことに機能している、
では、
機能と言わないことに注意せよ。
それだけでは機能とは言わない。
前に進んで初めて機能だ。
その場面でストーリーが進んでいる
(伏線として機能していたことがわかるのは、
解消時なので、今機能しているかが大事)、
その心情が○○の行動を引き出している、
その風景を見た○○は心が変わる、
ならば、
それらの場面は機能する。
この場合の機能は、functionではなく、
workだろう。
It works to develop story.
のようなイメージである。
そしてストーリーとは行動によって記述されるのであった。
つまり、その場面で行動が描かれるか、
その場面の結果行動になるかの、
どちらかでなければ、
機能しているとは言えない。
芸術創作の大きな動機のひとつに、
「私をわかってほしい」があると思う。
私自身の何かをそこに込めたり、
私の好きな何かをそこで表現することで、
作者の何かが満たされる。
だから、それを改変したりカットするのは、
作者にとって大変な苦痛を伴う。
なんなら、アイデンティティが否定されて、
しかもアイデンティティを強制的にねじまげられる恐怖すらある。
CMディレクターは常に、
クライアントからの理不尽な要求を聞く場面にさらされていて、
アイデンティティを病む人が多い。
対面なら言いづらい要求も、
メールやテレカンで一方的に言いやすくなったことも大きい。
こういう時に考えなければならないことは、
「機能しているか?」だ。
もちろん、
よく描けている場面そのものが、
商品価値があったりする。
時代の写鏡になっていたり、
それが緻密でうまく計算されていたり、
それ自体が芸術であったりする。
だが、機能していないものはカットしても問題ない。
ストーリーが前に進んでいないならば、
それは停滞だからである。
そのよく描けている場面ぶん、
ストーリーの商品価値はさがる、
とすら思った方がいい。
だから一旦カットする。
しかし機能するようにすれば、
ストーリーが停滞していて下がっていた商品価値は、
回復する。
それとよく書けている場面の商品価値、
どちらを取るかで悩むことだ。
もちろん、
ストーリーが進むさまを、
実にうまく書けてれば、
商品価値は高いわけである。
あることがある人の行動を引き出し、
その行動ゆえに結果があり、
次の人がそれに反応、行動して…
の連鎖反応こそが、
うまく書かれるべきだ。
わくわくしたり、なにかの感情をもったり、
感銘を受けたり、なるほどと思ったり、
夢中で時間を忘れれば、
それはうまく書かれたストーリーである。
もし、
うまく書けているが、
機能していないシーンがあったら、
カットせよ。
それで、ストーリー進行だけのシナリオに書き換えてみよ。
こういうときは、物理の紙を切って、
物理の紙をつなげて、全体をつくると、
わかりやすい。
ハサミとセロテープがあればできる。
なければ数百円払って買ってこい。
しょうもないキーボードに何万円払うよりよほど合理的だ。
もちろん、そのよく書けている場面は、
ゴミ箱に捨てずに横に置いておく。
で、その惜しい場面は、
「どうやったらストーリー進行に関係あるように、
書き直せるか?」
を問うと良い。
次の場面で、
そのシーンに関するリアクションから入るだけで、
機能を回復するかもしれない。
次の場面で、
そのシーンを受けて何かをすれば、
そのシーンは機能していることになる。
理想は、
そのシーンの中で、
誰かがストーリーを前に進める行動をするように、
書き換えるべきだ。
後輩のシナリオを見ていた時のこと。
ずっと壊れていたジェットパックの修理が終わり、
主人公たち二人は、
上へ下へとジェットパックで飛び回り、
アクロバット飛行をしてはしゃぐ、
映画的なビジュアルのシーンがあった。
でもそれは「治った」以外にストーリーの機能はないんだよね。
「治った!」「やったー!」
の二行で示せるものを、
一分二分飛び回って表現しても、
水増しに感じるわけだ。
飛び回って、すごいぜってなるのだが、
飛び回りながら、
「これが治ったということは、
もう君は元の場所へ帰れるんだな」
と別れの寂しさが襲って来る、
という場面ならば、
喜びと寂しさの同居する、不思議な場面になるだろう。
それゆえに、
次の場面で「ジェットパックを隠す」
という行動に出れば(天の羽衣の昔話とおなじ)、
その場面は機能するだろう。
治ったーやったー帰りまーす、
だけだと、独り言なんだよね。
せっかく二人いるんだから、
一人と別の一人は、同じ嬉しさを共有しながらも、
別のことを考えているとよい。
そのギャップこそが、物語の原因だからだ。
芸術創作の話に戻ると、
作者がよく書けていると思う場面って、
「独り言」であることが多い。
「私をわかってほしい」がその原動力だからだ。
二人の、n人のコンフリクトをわかって欲しい人はそんなにいない。
(多重人格障害ならそうなるかもだが、
統合人格が書かないとめちゃくちゃになるだろうしな)
だから、私と観客というベクトルになりがちだ。
そうではなくて、
この人とこの人とこの人が…
と、作品内のベクトルを考えるべきである。
その作品内のベクトルの変化がストーリー進行であり、
それは行動の結果もたらされる。
それを知っておくことだ。
うまく書けている場面で、機能しない場面は捨てなさい。
うまく書けていた場面が、
機能するように書き換えられるなら、書き換えて復活させなさい。
もし、機能しているが、
たいしてうまく書けてない場面があっても、
心配しなくて良い。
ただ、分かりにくいとか、誤解を生むようであれば、
それを除去するべきである。
機能している場面たちの中で、
それの感情をもっと増幅できるように、
うまく書き換えられるならば、
リライトしなさい。
それがうまく行けば、
それはうまく書けている、機能する場面になるだろう。
2022年06月27日
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