2022年06月30日

言葉を増やせば正確になるが、弱くなる

あなたの気持ちを語ってみよ。
一言でずばりと言えず、
延々と語ってしまうだろう。

そんな長い語りを、他人は必要としてるだろうか?
長い、3行で、というはずだ。

3行は手短な普通の表現。
ダラダラ長いのは聞くに値しない。
数語でキレ良くスパッと行くのが、真の表現。

そんなことはわかっているはずなのに。


それは、
主客がまだうまく分離していないからではないかと思う。

「自分のことを正確に表現する」
で手一杯で、
「他人から見たたくさんのそれらの中から、
自分の色を認識してもらう」
まで至っていないのである。


正確にいうためには、
言葉を増やさなければならない。
誤解は避けたいし、
あるものと別のものを区別したい。

そうなると、いくらでも言葉は増えていく。
ものごとが繊細であればあるほど、
言葉を尽くして表現しなければ、
正確にそれを捉えることはできない。

だけどそれは、
銀行ローンのCMのように、
注意書きが増えて文字だらけになり、
誰も読まなくなるものに変わっていく。


あれ全部読んで理解する人なんていないよな。
さらに保険や銀行の契約書を見ればよい。
何文字あるのかわからないくらい文字がある。

法律上正確を期さなければならないことは理解するが、
それにしても、
あれは、
「他人に読んでもらう」表現としては最低だ。

あんなことを、あなたの表現でしてないか?



一言で言うと、捨てろと言うことである。

575で世の中の人々が表現するゲームに、
2万字を引っ提げてきているバカと同じであるわけだ。


では3行でどう言えばいいんだ?

言葉を減らせば減らすほど、
誤解は増え、不正確になり、
どんどんぼやけてしまうではないか。

それを避けるために、正確にして、
言葉を増やしていったはずだ。


印象派の絵が、僕は正解だと思う。

言葉を増やし、正確さを増し、
2万字で俳句を書こうとすることは、
絵で言えば、キャンバスを大きくして、
筆をものすごい細いのにした、
細密画のようであると思う。

たしかに正確に書けるだろう。
そしてそれを正確に書く労力はとてつもなく大変。

まあ、それでも一回やらないと気が済まないなら、
とことんやってみたまえ。

細密画を描けばわかることだけれど、
筆の細さや、絵の具の粒子のダマの大きさが、
細密画の細かさの限界であることがわかる。

つまりそれ以上細かく描けない。
それ以上やりたかったら、
さらに細い筆、細かい粒子の絵の具
(日本画のような、岩を砕いてふるいにかけるような)、
あるいは大きなキャンバスにするしかない。

そしてそれは、どこまでやる?
ということになってくる。

言葉も同じだ。
正確に、きちんとやりたかったら、
俳句を2万字でも10万字でも使って書き直すことだ。

ところが。

いくらその言葉を増やしても、
永遠に正確な描写は無理なのだ。

だって一対一写像じゃないんだもの。

言葉を増やせば増やすほど、
正確になる。
しかしまだ曖昧な部分があり、
曖昧な部分はまた言葉を増やす必要がある。
だけどまだ曖昧な部分があり…
のようになってゆく。

どこまで正確に言わなければならないか。
僕は、言語では無理だと考える。
だって一対一写像じゃないんだもの。

おそらくこのことは近代哲学でも、
議論されていただろう。
ただ言葉が多すぎてさっぱりわからんのだ。
誰か3行でまとめてくれ。

細密画と言葉は同じだ。
無限に増やせるが、無限に真実に近づけない。


だから、
言葉が多い人や、細密画を描く人は、
バカなのである。
いつまでたっても正確にできないことを知らないバカだし、
そこに無限の労力をかける無駄なバカなのである。


印象派の絵が答えだ。

筆は荒く、タッチも適当だけど、
その本質を、わずかなそれだけでうまく捉える。

ささっと描いたような感じだから、
正確性は犠牲にしてもよい。

ただその本質だけが残るようでなければ、
印象派の絵ではない。


俳句とは、まさにその世界である。

古池や蛙飛び込む水の音

では、
どこの古池か、どれくらい古いのか、
大きさは、天気は、時間帯は、
蛙といっても何種の蛙なのか、
水の音は近いのか遠いのか、
そんな正確なことはどうでもいいのだ。

蛙が飛び込む水の音を聞いて、
それまで静かで死んでいたような古池が、
急に生き返ったような気がする、
そういう幽玄や永遠性を私は感じた、
ことが主題であり、
ディテールを取り除いたところに、
その本質的な気持ちがあるわけだ。

それは、夕方だろうが夜だろうが朝だろうが同じだし、
アマガエルだろうがウシガエルだろうが同じだし、
1000年前からある池だろうが、
3年前にできたがもう使ってない子供池みたいなやつでも同じである。

つまり、
ディテールに影響されない本質的な部分を、
短い言葉で、
印象派の絵のようにそこだけを取り出すのが、
言葉による表現に求められていることだ。


キャッチコピーは現代の俳句のようであるべきだが、
「省エネNo.1」とか、
「ゴクゴクいけるぜ。」とか、
どうでもいい機能のことしかいってなくて、
全然面白くない。

「恋は、遠い日の花火ではない。OLD is NEW.サントリーOLD」
くらい、
我々をハッとさせてくれや。
そしてそれを暗記したり、
思わず手書きで書きたくなるようにしてくれや。



Twitterは140字だから、
現代の俳句になりえたはずで、
バズった何かはたしかにそういう要素がある。

だけど正確に言えてないから、
「○○の例外があるんですけどどうなんですか?」
みたいなクソリプがついて、
その表現は殺されていく。
印象派の絵を見て「正確に描かれていない」
と突っ込むがごとき野暮である。


短い言葉による表現は、
表現そのものより、
言外の意味の方が大きい。
印象派の絵のようにだ。

その隙間こそ、人が想像する余地である。



さて、
あなたの表現の目的はなにか?

人の心を動かしたいのか?
無限に正確に書きたいのか?

どちらかを選べ。間はない。
posted by おおおかとしひこ at 00:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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