この脚本論では散々してる話だけど、
いい例があったので。
Twitterから。
> 車田正美の風魔の小次郎のここがすごい。
> ・顔がだいたいテンプレ、でも全く問題ない
>・見開きが革命的にカッコいい
>・脳天墜落ドシャァァアン
>・名前がいちいちかっこいい。龍王院狂須とか。でもすぐタヒぬ
> ・効果音のかっこよさ(ザシャァ ピシャァン ガカァッ ゴゴゴゴ)
> ・対峙のビジュアル
「ここがすごい」とこ全部、見た目のことなんだよね。
まあ勿論、
こんなすごい見た目のことが飛び交う内容である、
ことが言いたいのかもしれないが、
その「ラベル」は常にガワに貼られる、
ということを覚えておくと良い。
これがもう少し進むと、
設定にラベルが貼られるようになる。
・衰退した学園を救うのは忍者の里からやってきたお調子者!
しかしライバル校にも忍者がいて?!
・最強の武蔵を倒すため、風魔一族集結!
赤星の矢で集められた夜叉八将軍と全面対決!
・伝説の聖剣風林火山、黄金剣は秩序の剣。
混沌の剣と全部で10本あり、聖剣戦争が予定されている
・聖剣は正統継承者でなければ真の力は出せない
それは輪廻で継がれた運命なのだ
などのようなものかな。
僕はリアルタイム世代でもあるので、
こんな設定たちにはしびれまくったものだ。
そのことを考えてるだけで楽しい状態になる。
だけど、
自分でシナリオを書いてみればわかることなんだけど、
それはガワであり、中身じゃないんだよね。
中身ってのは、行動のことなんだよね。
そして行動には動機が必要で、
その動機に納得しないと、
その行動を応援(感情移入)できないんだよね。
そして行動には結果がともなう。
それを受けて、そもそもの目的を実現するために、
行動を続けるのが物語の中身だ。
さらに、その行動を阻む存在がいる。
邪魔したり、競合したり、
意図的に、または無意識に、
みたいな「他人」である。
その他人と立場的に対立、
ないし感情的に対立して、
目的の遂行を最後までやることが、物語の中身なんだよね
(コンフリクト)。
だから、
もし中身にラベルを貼るなら、
・それぞれの動機の良さ
・行動の面白さ
・対立の面白さ
・行動の結果の面白さ
・ツイストの面白さ
などにラベルを貼るべきだ。
車田論はドラマを作るときに散々考えて、
監督メモに記したが(このブログの風魔カテゴリの一番奥にある)、
実際車田正美の漫画の面白さは、
ガワの面白さで、
それが単に番長ものだったら、
それほど面白くないところにポイントがある。
ただし車田の「なにい?!」は秀逸で、
ツイストの面白さは群を抜く。
つまり、
動機、
行動、
対立、
結果
については、車田漫画の中身は薄い。
ドラマ版ではそれを補強した。
それぞれの動機を描き、
主人公は行動しまくり(ときに暴走もある)、
その結果を毎話つくる。
部活対決と忍者バトルの二本立てにしたのは、
部活対決は結果がわかりやすいからだ。
対立については原作に準じたが、
壬生や陽炎というジョーカーカードを入れて、
対立構造を複雑化して13話持つようにした。
これらが、
車田デザイン(ビジュアルは予算並みだけど)
に乗っかったから面白かったのだと思う。
さて、
創作物語の場合である。
ガワにとらわれて、中身を作れないのは、
よくある初心者の問題である。
どうやったら書けるようになるか?
という問いに対しては、
「ガワを取り去った中身だけを見れるようになり、
まずその中身だけを真似してみよ。
そしてオリジナルの中身をつくれるようになり、
最後にガワを被せよ」
ということだ。
車田漫画は実はその練習材料として、
格好の題材かもなあと思った。
車田漫画が中身がなくてつまらん、価値がない、
と言っているのではない。
車田は漫画屋と称して、
一週の刹那が面白ければそれで良い、
と考えていた人だ。
だから、反応としての「うおおおすげえええ」
だけが正解なのだ。
僕が扱う脚本論は、
映画がメインである。
二時間の間「うおおおすげえええ」はできない。
見終えた後、「これはこういう意味だったのだ」
と中身が残らないとつまらない。
中身とガワの幸福なマリアージュこそが、
映画の面白さだ。
だから車田漫画は、ジャンプ連載漫画としては正解だが、
映画やドラマには不正解だと、
僕は考えている。
だから、漫画の実写化に何が必要か?
という大雑把な問いには、
簡単に答えられる。
中身である。
ほとんどの漫画はガワの方が大きく、
中身は小さい。
ドラゴンボールの中身は面白かったっけ?
あのビジュアルと設定を取り除いたら、
勝った負けた死んだ生き返った、修行、
しかない中身になってしまう。
それが何の意味があるの?
に答えられない。
だから、
実写映画にするときは、
その意味が必要になる。
その意味こそが、「その原作をどれだけ深く理解しているか?」
に関係してくる。
だから漫画の実写化は難しいのだ。
ガワだけ真似しても、
中身のない学芸会(ビジュアルは原作に劣る)だし、
中身を中途半端に作ったら、
「わかっていない」「余計なことするな」だし。
全然違う中身に原作のガワを被せたら、
「客寄せに利用しとるだけやないか」とばれてしまうし。
だから、創作物語のほうが、
漫画の実写化より簡単なのだ。
自前でガワと中身を用意すればいいんだもの。
実写化は、
漫画のガワを利用して、
その中身と矛盾せず、
しかも中身を足して、ガワと中身の幸福なマリアージュを、
創作しつつ創作がバレてはいけないんだもの。
そこをうまいこと出来ないから、
それが難工事であることが知られていないから、
しかし銀行の資金提供は原作だけで受けられるから、
銀行の資金提供はオリジナルには降りないから、
実写化プロジェクトがたくさん立ち上がり、
そして難易度ゆえに爆死し続けていく。
ドラマ風魔の場合は、
僕が原作を深く理解していたことと、
僕に才能があったことで、
成功したと思っている。
もちろん、僕だけでなく、
市野さんやプロデューサーたちの才能も必要だった。
才能というと理解できない不思議な力みたいになるから、
プロとしての実力と言い換えてもいい。
ガワと中身をわけられるか?
中身だけを見て良し悪しがわかるか?
いい中身をつくれるか?
平凡な中身をいいものへリライトできるか?
それに合うガワを被せられるか?
これが、脚本家に必要な能力のすべてである。
中身に関してはまた細かく分かれるため、
その個別論はここで論じているが、
大雑把にいうと、
脚本とはこれをやり続けることである。
車田漫画はガワの天才であった。
絵柄や筆致もコミコミでね。
車田漫画の絵柄は実写では再現不可能だから、
その魂を「物語形式」に変換するとしたら。
ドラマ風魔はその難事業に成功した、
数少ない脚本の勝利の証拠だ。
もちろん、唯一解ではなく、ひとつの解に過ぎず、
別解もあり得るとは思う。
もし挑戦したかったら、やってみるのも面白いぞ。
あるいは、
とても深く理解している原作を、
ガワと中身に分解して、
中身を映画シナリオに変換し直す作業も、
勉強になるかもしれない。
ガワと中身がある。
ガワを外そう。
中身だけ見よう。
中身を色々いじったり、
0からつくれるようになろう。
また、そのガワとその中身か!
という新鮮な組み合わせをつくろう。
それがシナリオのやるべきことだ。
2022年05月31日
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