飯屋で、
「モアナは南の島の話だからリアリティがない」
と言ってるごく普通の人がいて、
そうか、
お前のリアリティの範囲しか、
リアリティを感じないんだな、と思う。
つまり、「リアリティがない」の中には、
「私の身近なリアリティでなない」
の意味が含まれている。
これは感情移入を考える上で格好の問題だ。
もし身近なリアリティしか人は理解できないのだとしたら、
相互理解の不可能性があるということになる。
「僕は南の島の出身だが、
南の島のリアリティが、
モアナに感じられなかった」
という批判ならば甘んじて受けるけれど、
「自分の身近にないことすぎて、
リアリティがなかった」
というのは、
想像力の欠如でしかないと思う。
つまり、
自分のリアリティの範囲しか理解できないのは、
人間としてだめだと思う。経験を増やせという話だ。
人間が人間たるゆえんは、
想像力ではないかと考える。
「私は南の島の出身ではないし、
南の島の常識はよくわからないが、
劇中で説明されたことを理解する限り、
あるいは自分の経験的に、
これは南の島でのリアリティがすごくあるし、
第一、人間が共通して持つリアリティがある」
のように想像力を使うべきで、
それこそが、
「物語を鑑賞する態度」だと思う。
身近なリアリティしか理解できないなら、
動物でしかないではないか。
僕の知りたいことは、
そんな動物が観客の何%いるか、
想像力があるふつうの物語好きが何%いるか、
なんでもかんでも想像しちゃうマニアが何%いるか、
ということだね。
動物が過半数を超えるかもしれないし、
民度というのはそんなくらいかも知れない。
体感3〜4割くらいだと思うんだが、
どうだろうね。
最近民度が下がってるんじゃなくて、
民度の実態が可視化されやすくなっただけ、
のような気もする。
ただ、「想像力がないことが恥ずかしい」
という意識はなくて、
身近なことに手一杯、という人が増えた気がする。
もっとも、
最近の若者らしく、
モアナで感動したことは伝えたいのだが、
熱弁することが恥ずかしくて、
相手のリアクションが乏しかったため、
「リアリティはないんだけど」と、
話を打ち切った可能性もある。
そういう時は、
問題の発生とセンタークエスチョンで引き込むといいぞ。
舞台は南の島、
珊瑚礁の向こうは行ってはならぬと育てられた村娘モアナ。
しかしある年不漁で魚が取れなくなってしまう。
モアナは言いつけをやぶり、魚を求めて珊瑚礁の向こうに出る。
そこは危険に満ちた未知の世界であった…!
くらいでいいと思うよ。
(未見なのでwikiのあらすじより適当に書いてみた)
危険な場所へ行ったらダメと言われて育つ女の子、
しかし好奇心は抑えられない、
ある日皆のためにそこに行かざるを得なくなる、
予想を超えた何かに出会い、冒険せざるを得なくなる、
という一幕(?)の感じは、
人類共通のリアリティがあるではないか。
南の島で育ったリアリティはなくても、
人間としてのリアリティはある。
それがすぐれた物語の特質である。
つまり物語を楽しむには、
抽象化という要素が不可欠である。
具体を離れて抽象にしたときに、
共通点が出てくるわけだからね。
「リアリティがない」という人には、
一定数抽象化能力が足りてない人が混じっている可能性が、
割とあるような気がする。
もちろん、南の島のリアリティが足りてない可能性もあるから、
人類共通のリアリティを思い付いたならば、
取材して具体のリアリティは詰めに詰めておくべきだろう。
そうすると、
南の島でもリアリティがあり、
抽象化された人類でもリアリティがあるものになる。
感情移入の成功は、
この二つが不可欠なんだね。
2022年06月06日
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