2022年06月06日

リアリティがない、に潜むもの

飯屋で、
「モアナは南の島の話だからリアリティがない」
と言ってるごく普通の人がいて、
そうか、
お前のリアリティの範囲しか、
リアリティを感じないんだな、と思う。

つまり、「リアリティがない」の中には、
「私の身近なリアリティでなない」
の意味が含まれている。

これは感情移入を考える上で格好の問題だ。


もし身近なリアリティしか人は理解できないのだとしたら、
相互理解の不可能性があるということになる。

「僕は南の島の出身だが、
南の島のリアリティが、
モアナに感じられなかった」
という批判ならば甘んじて受けるけれど、
「自分の身近にないことすぎて、
リアリティがなかった」
というのは、
想像力の欠如でしかないと思う。


つまり、
自分のリアリティの範囲しか理解できないのは、
人間としてだめだと思う。経験を増やせという話だ。

人間が人間たるゆえんは、
想像力ではないかと考える。

「私は南の島の出身ではないし、
南の島の常識はよくわからないが、
劇中で説明されたことを理解する限り、
あるいは自分の経験的に、
これは南の島でのリアリティがすごくあるし、
第一、人間が共通して持つリアリティがある」
のように想像力を使うべきで、
それこそが、
「物語を鑑賞する態度」だと思う。


身近なリアリティしか理解できないなら、
動物でしかないではないか。

僕の知りたいことは、
そんな動物が観客の何%いるか、
想像力があるふつうの物語好きが何%いるか、
なんでもかんでも想像しちゃうマニアが何%いるか、
ということだね。

動物が過半数を超えるかもしれないし、
民度というのはそんなくらいかも知れない。
体感3〜4割くらいだと思うんだが、
どうだろうね。

最近民度が下がってるんじゃなくて、
民度の実態が可視化されやすくなっただけ、
のような気もする。

ただ、「想像力がないことが恥ずかしい」
という意識はなくて、
身近なことに手一杯、という人が増えた気がする。



もっとも、
最近の若者らしく、
モアナで感動したことは伝えたいのだが、
熱弁することが恥ずかしくて、
相手のリアクションが乏しかったため、
「リアリティはないんだけど」と、
話を打ち切った可能性もある。

そういう時は、
問題の発生とセンタークエスチョンで引き込むといいぞ。


 舞台は南の島、
 珊瑚礁の向こうは行ってはならぬと育てられた村娘モアナ。
 しかしある年不漁で魚が取れなくなってしまう。
 モアナは言いつけをやぶり、魚を求めて珊瑚礁の向こうに出る。
 そこは危険に満ちた未知の世界であった…!

くらいでいいと思うよ。
(未見なのでwikiのあらすじより適当に書いてみた)

危険な場所へ行ったらダメと言われて育つ女の子、
しかし好奇心は抑えられない、
ある日皆のためにそこに行かざるを得なくなる、
予想を超えた何かに出会い、冒険せざるを得なくなる、
という一幕(?)の感じは、
人類共通のリアリティがあるではないか。

南の島で育ったリアリティはなくても、
人間としてのリアリティはある。

それがすぐれた物語の特質である。



つまり物語を楽しむには、
抽象化という要素が不可欠である。
具体を離れて抽象にしたときに、
共通点が出てくるわけだからね。

「リアリティがない」という人には、
一定数抽象化能力が足りてない人が混じっている可能性が、
割とあるような気がする。


もちろん、南の島のリアリティが足りてない可能性もあるから、
人類共通のリアリティを思い付いたならば、
取材して具体のリアリティは詰めに詰めておくべきだろう。

そうすると、
南の島でもリアリティがあり、
抽象化された人類でもリアリティがあるものになる。

感情移入の成功は、
この二つが不可欠なんだね。
posted by おおおかとしひこ at 14:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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