僕は、目的によって、文体も文章量も、
全然変わるべきだと思う。
このブログは基本僕の頭の中を書き散らしているのだが、
梅棹さんの文章作法について、
Shikiさんがまとめたものがあって興味深い。
https://shiki.esrille.com/2022/06/rules.html
文章はわかりやすくなるべきだ。
文章は誰にでも開かれるべきだ。
その哲学から考えれば、
梅棹さんの文章作法は正しい。
でも僕は、それが文章の全てではないと考えている。
もちろん、分かりにくくて、
誰にも通用しない文章は意味がない。
分かりにくいのは分かりやすくするべきだし、
ある程度の人数には開かれるべきだ。
日本語のわかるほとんど全員に向けるか、
そこまででもないか、
という差があると思う。
梅棹さんの文章は、
日本語が分かる人全員(子供や外国人でも)に、
向けたやり方だろう。
公文書やNHKもそうあるべき、というのもわかる。
ただ、だとすると、
「間違っていない、いろんな人に検証された、
正しい真理」でなければならない。
共有の範囲が広いほど、公明正大であるべきだ。
そうした目的、内容の場合は、
梅棹さんの文章が最適だろう。
石に刻むべき真理、という言い方があるが、
それくらいのレベルなことだ。
僕の文章はそうじゃない。
間違ってる可能性もあれば、
ごく僅かな人に向けて書いてもいる。
その代わり、
「まだ人類が到達していない、最前線」
のことを書いている。
だから難しい言葉も使うし、
ひらかれたものではない自覚はある。
物語というのはそもそもそういうもので、
しかもその到達点を示すものでもある。
「こんな新しい尖った考えがある」ことは、
芸術の使命でもあるわけだ。
だから文章そのものが尖っていて、
多くの検証を経てなくて、
フィルターで濾されていない。
それが、多くの人に検証され、
正しいとわかり、
平明に再解釈され、
誰もが身につけるべき常識のレベルまで丸くなれば、
梅棹さんの文体で書くべきだろうと考えている。
僕はつまり最先端にいる。
公文書やNHKは最後方にいる。
進んでるとか遅れてるではなく、
人々の進む方向、という意味だ。
最先端は道を間違うかも知れないし、
すぐ死ぬかも知れない。
その代わり新しい何かを発見する。
最後方ではすべての検証が終わり、
価値のないものは捨てられ、
発見からずいぶんとたった、
確固たるものとして周知される。
僕が薙刀式を作った理由は、
「頭の中に湧いた瞬間のアイデアが、
蒸発する前に書き留めたい」ということだ。
つまり最前線でなんとかしたい、
というための配列だと思っている。
一方ShikiさんがやろうとしているNew Stickneyは、
梅棹さんのような文体が理想に見える。
だから小学生にも分かりやすく、学びやすいと考えられる。
最前線で、梅棹文体が可能かな?
僕はできない。
出来る人もいると思う。
そして最前線で書き留めるのには、
ごちゃごちゃな状態でもいいから、
形にすることのほうがよほど大事だ。
そんな時に梅棹文体を使ってる余裕はないと思う。
梅棹文体は、フィルターを濾す、
時間の余裕が必要に思える。
つまり吟味や推敲だ。
現場では吟味や推敲の時間はない。
速報性こそが命だ。
薙刀式は、だからそんな最前線用の配列じゃないか、
と僕は考えている。
最先端で苦闘するときの、両手に持った武器であると。
あまり考えたことがないけど、記者用に向いてるかも知れない。
逆に、New Stickneyは、
吟味や推敲に向くかも知れない。
優雅にティーなどを嗜みながら、熟考するときのやりかただと思う。
文章には内容があり、
目的がある。
それに応じて、道具や文体を使い分けるべきだと思う。
ただ、二つの仮名配列をマスターすることは、
どうも出来ないっぽい。
僕は手書きや薙刀式で書き、
速報性の強いものならそのまま出すし、
本格的な原稿ほど、出力して手書きで直す。
この時の手書きが、たぶんNew Stickneyを使うような時間なのだろう。
で、
僕は過去の、死んだ内容や知識にはあまり興味がないので、
最前線の、新しい、間違ってるかも知れないところで、
薙刀式で書き続けるのだと思う。
いつか自分の全知識をまとめるアーカイブをつくるときは、
薙刀式を使わない可能性もあるが。
最近薙刀式のスピードが上がりすぎて、
2000文字(変換後)/10分は、
推敲のないヘンテコな文章になるのでは?
などと考えている。
最前線は常にぐちゃぐちゃだ。僕はそこをなんとかしたいわけだ。
2022年06月16日
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