まず自分の思いを正確に言葉にできるようになろう。
100%はなかなか難しいから、
30%、50%、70%と、うまく表現できるようになろう。
それで作品になるかい?
僕はならないと思う。
芸術は自己表現である、
という言説は、ほんとうだがまちがいだ。
自分の中の初期衝動や積年の思いを、
100%に近づけるために、
何かの芸術表現に託すことは、
表現者として当然の行動である。
でも、それが作品になるとは限らない。
あなたのその純度100%の思いは、
嫌われることもあるからだ。
あなたという個は、
誤解されたり嫌われたり拒否されたりもする。
100%受け入れられるわけではない。
部分的なOKやNGもあるわけだ。
それは、あなたが他人をどのように見ているかを、
見ればわかる。
あなたはあなた以外の他人の思いを、
100%受け入れているかというと、
そうではない。
好きな人嫌いな人、
認める人認めない人がいるだろう。
他人のそうしたリストの中に、
あなたが入るだけのことだ。
じゃあ人気者になればいいのかな?
出来る人はやればいい。
もともと創作を志すような人は、
人気者になれないタイプが多いと思う。
だから人気者になれ、という命令は全否定だと思う。
僕は、突き抜けろ、というアドバイスをしたい。
70%、80%、90%、95%…
という闘いに意味はない。
120%、150%、200%、500%を、
表現せよ、という話である。
それは、嘘をつけということだ。
あなたはドキュメント作家でも、
報道記者でも科学者でもない。
真実を真実のままに記録することは、
する必要がない。
「出来上がったものが、面白いかどうか」
だけで勝負する、嘘つきなのである。
嘘つきが嫌ならば、フィクション作家と言い換えてもよい。
ノンフィクションで嘘をつくのはルール違反だが、
フィクションで本当のことしか言わないのもルール違反だ。
あなたの思いを100%に達したとしても、
目を引かず、面白いと思われないかもしれないよ、
ということだ。
フィクション作家は100までじゃなくて、
300でも1万でも、上限がないよ、
ということだ。
だから、突き抜けていいんだよ。
あなたの中の何かに、
100以下から100にギリギリ近づける必要はない。
あなたのコアな部分を、
300や1万に増幅するとどうなるか?
を考えると良い。
ちっぽけなことを大袈裟に作り直しても良いのだ。
(たとえば「トップガンマーヴェリック」は、
ただの学校の話を、戦闘機という大袈裟で置き換えているだけだ)
リアルなあなたの90や95は、
ドキュメントだったらドン引きされるかもしれない。
だが増幅して1万まで突き抜ければ、
ものすごい嘘の面白さに見えるのだ。
そのうち、あなたは分かってくる。
自分の中の全部でなくて、
ある一部分を、1万まで突き抜けさせればよいのでは?
それを拡大する時に、
すべて真実である必要はなく、
多少面白おかしく盛ってもいいのでは?
そして、
とくに自分の中にコアがないものでも、
1万まで作れるのでは?
とね。
ここまで来て、
ようやくあなたはフィクション作家として、
嘘つきを覚えたことになるわけだ。
人気者とは別のやり方で、
あなたはフィクション作家として、
嘘つきとして人気者になるだろう。
それが面白ければね。
あなたの個人的な思いは、つまりは面白くない。
居酒屋の愚痴を、席を回って聞いてみなさい。
どの人の愚痴も面白くないだろうね。
あなたはその居酒屋よりも、
面白いものを作らなければならないし、
あなたを居酒屋で目立たないレベルにとどめ、
その他大勢に紛れてしまう必要はない。
嘘をついて突き抜けろ。
その嘘は、すべて面白さのためにつけ。
あなたをごまかしたり、否定するためにつくのではない。
あなたは作品と関係ない。
それがフィクションの優れた作家というものだ。
関係ないものに、そんなに必死になれる?
全く無関係なら興味が持てないよ。
必死になるのは、
その作品のどこかに、自分が必死になる一部分が含まれているからだ。
そしてそれを見る人も、それを感じるからだ。
(感情移入の原理)
ただ、作品の中の一部でよくて、
それを芯にして、周りを1万の嘘で増幅してあるのが、
面白いフィクション作品ということだね。
なぜフィクションは、嘘なのに、
ときに現実以上に現実に近いのか?
このことと関係している。
あなたの中の真実の一部がコアになっていて、
それは他の人にも通ずる真実で、
それがフィクションで増幅されて1万になってるからだ。
それが100じゃなくて、1万だから「おもしろい」のだ。
あなた自身は面白くもないし、人気者でもない。
だけどあなたの書く話は面白い。
そうなるべきだ。
2022年06月19日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック