キーボードは官能部分であるそうな。
個人の感覚の嗜好が色濃く反映して、
数値化や理論化が困難な部分であるからね。
そういうものと、エンジニアリング、設計は、
相性が悪いから、
「官能は設計できない」という経験則があるらしい。
逆にいうと、
キーボードは、
エンジニアリングで出来る範囲
(電気スイッチがマトリックススキャンされて、
オンオフを検知してキーコードを吐くこと)
では、
全く満足がいかない、
ということだ。
エルゴノミクスは経験則の集合体であるが、
統一的な理論が存在するわけではない。
人間はこの方程式に従うと気持ちいい、
なんてのが発見されてればどれだけ楽だろう…
だから、
自作キーボードは、
経験値、知見の集合体になり、
それってつまりは、工芸品ないし芸術品に近いんだよね。
自作キーボードイベントはつまり、
芸術鑑賞会に近いと思うわけだ。
見た目や映えに走る人もいるが、
僕は打鍵感だね。
これはZ軸のグラフで表現されるだけではない。
手の形で打ちやすいかという、
三次元的な指の動きがメインの評価項目だ。
あるいは最近バビロンを設計しているように、
打鍵姿勢からの話になると思っている。
それが「個人の嗜好」「感性の問題」
と一括りにされている領域を、
腑分けしていけるのではないかと考える。
感性エンジニアリングは失敗する、
というのがこれまでの教訓のようだが、
そりゃそうだよね。
エンジニアリングのやり方では、
感性は分解できない。
「同一条件で同一結果が出る」ことが科学のベースで、
キーボードは今日と明日で手触りが変わるものだ。
いや、自作キーボードだけが、
「今日と明日の我々の指の感覚は違う」
を発見したのかもしれない。
自キ界隈では、
「朝、使うキーボードを決める」
という儀式がはやっている。
散々官能的なキーボードをいくつか作ったから、
これと決めるのが難しくて、
困っちゃうー、今日はこれの気分!
と、今日の服のようにキーボードを決める、
という流れである。
(キーキャップやスイッチを変えられるから、
余計にそれが加速する)
だけどそれって、
今日の指と明日の指が違うってことだと思う。
僕は、
昨日の疲労と同じことをするのを避けている、
という無意識ではないかと考えている。
エルゴノミクスは戦闘機のコクピットから始まったそうだ。
完成品はゲーミングチェアだろうか。
でもやったことって、
人体各部の長さや角度を測定して、
統計を取っただけなんだよな。
同じ姿勢が疲労に及ぼすから、
姿勢的寝返りのためにはこうあるべきだ、
までたどり着いてない気がする。
「その椅子を一時間に一回離れて運動してください」
くらいしか経験則がない。
今日の服のようにキーボードを決める儀式は、
スイッチもキーキャップもマウント方式も、
物理配列も変えることで、
「昨日の疲労を起こさない、もっとも遠いキーボード」
を選んでるのではないか、
と僕は想像する。
「僕のエンドゲーム」が決まらない理由は、
つまり人の疲労は日々バラバラで、
測定する側の人の感覚が一定しないからでは、
などと考えている。
(疲労が一切ない人は、そもそも自作キーボードに手を出さない)
最近の流れはガスケットマウントからの、
プレートやらフォームやらウエイトやらで、
柔らかい硬いの議論が多いと思う。
しかし打鍵感(触覚)と打鍵音(聴覚)の混同も見られて、
測定している我々側がブレている感覚がある。
…ということで、
芸術家の、受信側の鋭い感性と、
思うことを実現する器用な手作りが、
大事だな、
などと考えるわけだ。
芸術がエンジニアリングできる、
などと科学者がいえば、
芸術家は大変な反発をするだろう。
科学で理解できないところを我々は担当してるのだ、
と考えているからね。
勿論立体制作は、材料工学やら物性工学の知見を、
大いに利用するのだが。
ということで、
芸術とエンジニアリングの汽水域が、
自作キーボードなわけだ。
こりゃ面白いにきまってる。
ああ、久しぶりのキーボードイベントで、
沢山のキーボードを鑑賞(打鍵)したい。
(官能の欲求不満)
2022年06月25日
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