2022年06月26日

デジタルは人を幸せにしない: モノとしての存在

映画「タイピスト!」の中に、
タイピング世界一の美人主人公が、
新発売タイプライターのイベントで、行列したファンにサインするシーンがある。

本人の写真が印刷された紙をタイプライターにセットして、
ダダダと本人が名前を打ってくれる、
シャレたシーンであった。

これ、デジタルだと成立しないと思った。
何が違うのか考えると、
モノとして存在するか、しないかという話。


現在タイピング最高峰チャンピオンは、
miriさんという美人タイパーだけど、
自分のスマホのLINEに、
「リアルフォースタイピングチャンピオンシップ王者 miri」
という文章が写真入りで送られてきても、
ありがたみがないなあと思ったんだよね。

タイプライターで打たれた、
物理文字に比べて、
全然説得力が違うと思った。
じゃLINEの文章をプリントアウトすればいいか?
それでも足りない気がする。

「その文字が、イベントで、本当に打たれた」
ことは、デジタルには情報として存在しない。
デジタルにGPS情報や時刻情報がついてきても、
印字されたタイプライター文字の迫力はない。
「それが、そこに、実在する」
は、モノにしかない。

逆に言えば、モノは証拠になるが、
データは証拠にならないだろう。
いくらでも改竄できるからだ。
量子暗号などの開発がさかんなのは、
改竄できないデジタルが、求められているからだよね。

ざっくりいうと、
デジタルはデジタルの中にしか存在しない。
「俺には嫁がいるが、ただ2Dなだけで、
3Dに出てこれないだけなんだ」の、
2Dがデジタルに変わっただけだ。

つまりデジタルは、
どんなにCGだろうがVRだろうが3Dだろうが、
8Kだろうが1000Kだろうが、
60fpsだろうが10000fpsだろうが、
「絵じゃん」なのだ。


現在野良VR界隈では、
VR空間内で仕事をするための、
バーチャルデスクが開発されつつある。
もちろんアバターをかぶることができて、
VTuberがVR空間でカタカタキーボードを打てるわけだ。

で、結局これで言われていることは、
「効率はよくなる(モニタが広くなる)が、つかれる」ことと、
「現実空間に戻ってきたらがっかりする」
ことである。

2Dと同じじゃないか。

人は何かに「仮託」することで、
現実を越えようとするのだが、
その仮託は仮にしかすぎず、
現実に戻ってきたら、「絵じゃん」に戻されてしまうのだ。



一方、
「トップガンマーヴェリック」では、
本物の戦闘機を飛ばして撮影している。
CGでやればいくらでもリアルにできる現在
(エースコンバットにコラボモデルが出てることが、
21世紀的だ)で、
トムクルーズはそれを避けたのだ。
実際、トムクルーズ自身もスタントをすべて自分でやることで知られる。
ジャッキーチェンかよおまえ。
すげえな、ってシーンが死ぬほどあり、
それだけですごいのに、
トムクルーズは脚本を読むことの天才だ。
ミッションインポッシブルあたりから、
ハズレが一本もないんじゃない?

で、
トップガンのすごさって、
「ほんとにやってる」の一言につきるんだよね。

デジタルと比較すると、
「仮じゃない」ってことだ。

ハリウッドは「ジュラシックパーク」以降、
CGという大きな武器を手に入れたけど、
それは「実在しない」という誰も気づかなかった、
欠点を内包していたのだ。

どんなにフォトリアリスティックにつくっても、
それは「実在しない」んだよ。
絵なのさ。


そもそも、映画は絵だ。
実体はフィルムや.movや.mp4である。
その中の世界は実在しない。

だけどそれを撮影するには、
実在を撮る必要がある。

だから映画は、もともと実在するものを見る娯楽である。

ここに仮の嘘、フェイクであるCGが幅を利かせてきたのが、
ここ30年くらいの流れだろうか。

デカイグリーンバックに背景をCGでつくり、
知らない街を作り出した合成などを、
メイキングなどで見たことがあるだろう。


それが飽和したとき、
「実在」が強いことに、
そろそろみんな気づき始めている。

日本では、
大袈裟な歌舞伎調の芝居から、
浅野忠信的なリアルな芝居に移行した流れがある。
最近はそれだけだと物足りないから、
大袈裟な芝居とリアルな芝居を使い分けるのが、
若い人たちに広まっているように思う。

どうしてそこまで芝居への感度が上がったのかというと、
デジタルのせいだと思う。

これは嘘なのか、実在なのか、
人は不信感をまず映像に抱くようになってしまったのではないか。

だから、
「真っ向のフィクションです」
「実在です」を出来るだけ早めに判断してから、
それを受け取りたいというリテラシーができてしまったように思う。

ざっくりいうと、2D(絵)なの?3Dなの?
ということである。
アニメならあきらかに2Dとわかるけど、
CGが発達しすぎて、3Dにみえる2Dが増えてしまったわけだ。

シンウルトラマンが詰まらないのは、
「3Dに見える2D」と、
「2Dに見える2D」が混在する世界のくせに、
「ペラペラの2D芝居とストーリー」であったことだ。

この乖離によって、「これはほんものではない」
と我々は思ってしまう。
そこに実在するブツはない。
あるのは居酒屋と名刺だけだ。
どんなにCGを駆使しても、
結局実在こそが人の心にとどく。

シンウルトラマンはそれをわかってなくて、
トップガンはそれをわかっていた。
その違いであろう。



人間の俳優が芝居をして、カメラで撮影する、
ふつうの映画のスタイルを、ライブアクションという。
CGや特撮を使ってない、みたいな意味だ。

デジタルは人をしあわせにしたのだろうか?
「仮」を増やしただけで、
ほんものを減らしてしまったのではないか?

映像業界に限って言えば、
「デジタルにすれば安く済む」ということが、
デジタル化推進の最大の原動力だった。
いまそのツケが出てきている。

ほんものの実在をつくる実力が、失われつつあるのだ。

ほんものをつくりたくても、予算が半額、1/4、1/10になっている。
業界全体が、だから蒸発しつつあるように見える。
若いスタッフもほんものの現場を見ることができず、
実在はロストテクノロジーになりつつあるのではないか。


デジタルは人を幸せにしたか?
僕はノーだと思っているし、
しかしノーといっても次に「実在」をつくれるチャンスがあるかはわからない。

トムクルーズだけが突っ走っている。
なぜそれがよいのか?実在だからだ、
よし、俺たちも実在をつくるぞ、
とみんなが分析してくれるといいのだが、
そんな論評をあまり見ない。


映画は見世物である。
見世物はサーカスである。
サーカスは、命綱をつけてないから面白い。
posted by おおおかとしひこ at 16:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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