2022年08月04日

「見たことのないものを持ってこい」というくせに

いざ持っていったら、
「これは〇〇と〇〇に似ている、
という企画書を書いてくれ」という矛盾。


つまり、投資家たちに見せるには、
これまでにない新機軸であることは、
投資にはつながらないということになる。

〇〇と〇〇に似ているから安心で、
しかも〇〇と〇〇の要素が組み合わさって、
新しい味になる、
というようなことしか言っていないわけだ。

投資家はよほど馬鹿なのだろうか?
それとも、
投資でもうからなくてはならない、
という義務でもあり、
それを何にベットするかを見ているだけなのだろうか?

何が出来るかは分らないが、
もし出来るとしたら、こんなに新しく、世界を変えるものであるのだが、
誰も理解してくれないから、
理解者を探すことが投資を募る、
ということだと思ったのだが、
理解しようとする投資家はいないのだろうか?

それとも、馬鹿な企画書しか持ってこない映画会社に、
そろそろ嫌気がさしてきて、
まともな企画書、つまり、
「誰も見たことがないのだが、
斬新すぎて理解者が得られないから、
理解者を探すためにこの企画書を書いた」
というものを求めているのだろうか。

投資家と直接話さないので、
なんとも言えない。
企画者本人と投資家は、直接話す場がない。
あれば面白いと思うんだけどな。

映画は、そうした真の自由市場ではなく、
これまで失敗した経験からか、
ベルトコンベアのようになってしまっている。
つまりは硬直化だ。
ハリウッドはそうでもないようにまだ見えるが、
邦画はかなり壊滅的に見える。
ネットフリックスがその硬直化を突破するように思えたが、
話に聞くと行き詰っているらしい。
勿体ない。日本で作品をつくるチャンスがそこまでないまま、
この流れは終わってしまうのかもしれない。

そもそも、
何が斬新で、何が革命的か、
企画者本人がわかっているとも言えない。
うまくその本質を見抜き、
これはこうなのである、とキャッチーな言葉に出来る、
広告家が必要な気がする。
そんな人はもういないのかな。
今の広告業界にはほとんどいないように見えるよね。

結局、言葉だ。
これはこうなのである、と理解するのは言葉しかない。
いかに斬新かアピールしろ、
と言われて絵やダンスで表現しても、
理解したことにならないだろう。

これはこうだから斬新なのか、
と腹落ちするには、
言葉を渡す必要がある。

そこまで客観化できている企画者はあまりいないと思う。

だから、
ある企画を別の人が企画書にする、
というやり方が良いような気がしている。
なんでこれはいいんだっけ、
を知らない人目線で書くには、
優秀な他人が一番いいような気がしている。

もし近くにいなかったら、
自分でやるしかない。
しかしまだ出来上がっていないものを、
よくいうには、嘘をつくしかない。

こうして、斬新な嘘だけが企画会議を通り、
結果、何にもならなかったものが出来上がるのだろう。

企画会議にも到達していなかった、
ダイヤの原石を拾い上げることはとても難しい。
企画書ヅラの裏を、読解しなければならないからだ。

その読解力がある人は、投資家も含めて、
なかなかいない気がする。


翻って、
自分はどうだろう?
何かに似ているから安心して、それを享受するか?
何にも似ていないから、
まずは拒否するだろうか?

僕はあまりそれらに影響されない、
悪食もたくさんしてきたから、ガワは関係ないと思っているが、
「その本質をうまく表した予告編やキャッチコピーや短い紹介」
がないと信用しない。

口コミの中にそれがあれば興味を持つこともあるが、
基本的にはそうしたものは、
発信側から発せられるものであるべきだろうね。

そういった言葉を、
試写会の感想からパクるつもりの某映画会社宣伝部は、
仕事をしていない無能だと思ったなあ。


見たことのないものを見た人は、
なんとかして見たことのあるパーツで、
見たものを再現しようとする。
UFOを見た人が、アレに似てたとか、
コレに似てたとかいうのと同じだ。
でもそれは、本質を言い表したものではない。

うまく本質を言い表すには、
他にはないそれは何か、ということが必要だ。
ただそれがあるだけではだめで、
それが機能することを示すべきだ。
そこらへんはキャッチコピーの塩梅と同じだと思う。


映画「いけちゃんとぼく」の、
当初の脚本には、
「目に見えないものが子供の周りにはたくさんいて、
子供はそれと会話することで大人になってゆく。
その周りにいたものが見えなくなる瞬間が、
子供が大人になった瞬間なのだ」
という明確な軸があったが、
それが改稿のたびに失われて、
「ひと夏のおばけと少年のふれあい。
しかしそのおばけには切ない正体があった。
それは大人のラブストーリー」
のように曲げられていた。

最後の二行は、見た者だけが理解する意外な結末であるべきであり、
それに依存しない、何かしらの斬新さが必要だと僕は主張したが、
そのようにはならなかった。
「こちらが思うものの実現には金を出すが、
それ以外のことについては勝手にどうぞ。
金は出さない」
という感じであったことを思い出す。


斬新さを認められなければ、
それに金は出されない。
そうでなければ、
新しいものはつくられず、
何かに似たものだけがつくられて、
市場は硬直し、文化はついえるだろう。


そうした面倒ごとが一切ない、
個人製作のネット文化が花開いているのは、
発明と投資と回収という資本主義のシステムが、
機能しなくなっていることの証拠かもしれない。

ほんとうに斬新である企画を出来る人、
目利き、
それらを言葉で説明できる人、
それを理解して投資する人。
この4人がそろわないと、
システムが機能しないんだな。
posted by おおおかとしひこ at 00:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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