いざ持っていったら、
「これは〇〇と〇〇に似ている、
という企画書を書いてくれ」という矛盾。
つまり、投資家たちに見せるには、
これまでにない新機軸であることは、
投資にはつながらないということになる。
〇〇と〇〇に似ているから安心で、
しかも〇〇と〇〇の要素が組み合わさって、
新しい味になる、
というようなことしか言っていないわけだ。
投資家はよほど馬鹿なのだろうか?
それとも、
投資でもうからなくてはならない、
という義務でもあり、
それを何にベットするかを見ているだけなのだろうか?
何が出来るかは分らないが、
もし出来るとしたら、こんなに新しく、世界を変えるものであるのだが、
誰も理解してくれないから、
理解者を探すことが投資を募る、
ということだと思ったのだが、
理解しようとする投資家はいないのだろうか?
それとも、馬鹿な企画書しか持ってこない映画会社に、
そろそろ嫌気がさしてきて、
まともな企画書、つまり、
「誰も見たことがないのだが、
斬新すぎて理解者が得られないから、
理解者を探すためにこの企画書を書いた」
というものを求めているのだろうか。
投資家と直接話さないので、
なんとも言えない。
企画者本人と投資家は、直接話す場がない。
あれば面白いと思うんだけどな。
映画は、そうした真の自由市場ではなく、
これまで失敗した経験からか、
ベルトコンベアのようになってしまっている。
つまりは硬直化だ。
ハリウッドはそうでもないようにまだ見えるが、
邦画はかなり壊滅的に見える。
ネットフリックスがその硬直化を突破するように思えたが、
話に聞くと行き詰っているらしい。
勿体ない。日本で作品をつくるチャンスがそこまでないまま、
この流れは終わってしまうのかもしれない。
そもそも、
何が斬新で、何が革命的か、
企画者本人がわかっているとも言えない。
うまくその本質を見抜き、
これはこうなのである、とキャッチーな言葉に出来る、
広告家が必要な気がする。
そんな人はもういないのかな。
今の広告業界にはほとんどいないように見えるよね。
結局、言葉だ。
これはこうなのである、と理解するのは言葉しかない。
いかに斬新かアピールしろ、
と言われて絵やダンスで表現しても、
理解したことにならないだろう。
これはこうだから斬新なのか、
と腹落ちするには、
言葉を渡す必要がある。
そこまで客観化できている企画者はあまりいないと思う。
だから、
ある企画を別の人が企画書にする、
というやり方が良いような気がしている。
なんでこれはいいんだっけ、
を知らない人目線で書くには、
優秀な他人が一番いいような気がしている。
もし近くにいなかったら、
自分でやるしかない。
しかしまだ出来上がっていないものを、
よくいうには、嘘をつくしかない。
こうして、斬新な嘘だけが企画会議を通り、
結果、何にもならなかったものが出来上がるのだろう。
企画会議にも到達していなかった、
ダイヤの原石を拾い上げることはとても難しい。
企画書ヅラの裏を、読解しなければならないからだ。
その読解力がある人は、投資家も含めて、
なかなかいない気がする。
翻って、
自分はどうだろう?
何かに似ているから安心して、それを享受するか?
何にも似ていないから、
まずは拒否するだろうか?
僕はあまりそれらに影響されない、
悪食もたくさんしてきたから、ガワは関係ないと思っているが、
「その本質をうまく表した予告編やキャッチコピーや短い紹介」
がないと信用しない。
口コミの中にそれがあれば興味を持つこともあるが、
基本的にはそうしたものは、
発信側から発せられるものであるべきだろうね。
そういった言葉を、
試写会の感想からパクるつもりの某映画会社宣伝部は、
仕事をしていない無能だと思ったなあ。
見たことのないものを見た人は、
なんとかして見たことのあるパーツで、
見たものを再現しようとする。
UFOを見た人が、アレに似てたとか、
コレに似てたとかいうのと同じだ。
でもそれは、本質を言い表したものではない。
うまく本質を言い表すには、
他にはないそれは何か、ということが必要だ。
ただそれがあるだけではだめで、
それが機能することを示すべきだ。
そこらへんはキャッチコピーの塩梅と同じだと思う。
映画「いけちゃんとぼく」の、
当初の脚本には、
「目に見えないものが子供の周りにはたくさんいて、
子供はそれと会話することで大人になってゆく。
その周りにいたものが見えなくなる瞬間が、
子供が大人になった瞬間なのだ」
という明確な軸があったが、
それが改稿のたびに失われて、
「ひと夏のおばけと少年のふれあい。
しかしそのおばけには切ない正体があった。
それは大人のラブストーリー」
のように曲げられていた。
最後の二行は、見た者だけが理解する意外な結末であるべきであり、
それに依存しない、何かしらの斬新さが必要だと僕は主張したが、
そのようにはならなかった。
「こちらが思うものの実現には金を出すが、
それ以外のことについては勝手にどうぞ。
金は出さない」
という感じであったことを思い出す。
斬新さを認められなければ、
それに金は出されない。
そうでなければ、
新しいものはつくられず、
何かに似たものだけがつくられて、
市場は硬直し、文化はついえるだろう。
そうした面倒ごとが一切ない、
個人製作のネット文化が花開いているのは、
発明と投資と回収という資本主義のシステムが、
機能しなくなっていることの証拠かもしれない。
ほんとうに斬新である企画を出来る人、
目利き、
それらを言葉で説明できる人、
それを理解して投資する人。
この4人がそろわないと、
システムが機能しないんだな。
2022年08月04日
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