2022年08月05日

数稽古の必要性

これはいくら言っても言い過ぎではない、
重要なことである。

何故だろう。
「正解のないこと」をするからだ。


正解のあることに対しては、
反復練習は有効だ。
受験勉強は正解があることが前提である。
だけど勉強のように整理された空間が、
現実ではない。
正解があるかどうかもわからない、
現実的な解と理想的な解が矛盾する、
なんてことも、現実にはたくさんある。

それらの中で、よりベターな解を出す練習は、
ただの反復練習では身につかない。

どうすればいいかというと、
試行錯誤の経験値だ。

正解があるかわからない状況や、
複数解があるような現実的な文脈では、
試行錯誤の経験値による、勘だけが、
試行錯誤の試行回数を減らすことができる。

あるいは、試行錯誤を繰り返していると、
一定の勝ちパターンをつくることができる。
作風と言われるものだ。
あることを突破するときに使える特定の手順、
みたいなものだろうか。
それがあれば、まあなんとかなる、という奥の手でもあるだろう。

これを作り出すために、
試行錯誤はあるともいえる。

あるいは、失敗の経験である。
「似た状況のとき、かつてこうやった。
なぜダメだったんだっけ」
という反省があればあるほど、
「いまその選択肢を取るべきではない」ということが、
身に染みてわかるはずだからだ。
それは理屈ではなくて、
「痛い目にあった」という反射的なことだから、
反射的に却下できるわけだ。

こうして、
複雑な状況でも、
そっちはハズレで、こっちはアタリだろう、
という勘が生まれるのだ。

つまり、
数稽古の目的は、
勘を鍛えるためだ。

そういってしまうと身もふたもないが、
真実なんだからしょうがない。
つまり、試行錯誤の記録は、ほとんど意味がない。
それらを超えた、
「なんとなくこうな気がする」の感覚が重要だからだ。
勘が働かないときだけ、
理屈を使うことになるだろう。
そのときに、記録や分析が生きるとは思うがね。


数稽古は、
作風の確立に重要だが、
それ以外の作風へのチャレンジも可能にする。

一個の作風を生み出すには膨大な時間が必要だけど、
それだけでは勝てない。
すぐに飽きられるからね。
自分も飽きるだろうし。

だから、また違う作風にチャレンジするのは、
リスクを伴うわけだ。
だから数稽古をしておいて、
複数の作風を身につけておくべきだ。

これは第一線に立ってしまったら、
なかなかやる時間がないだろう。
だから、第一線に出る前の、若い時に徹底しておくべきだ。
また、いったん第一線から退き、
角をためる時期がいつか来るので、
そのときにまた違う数稽古をやるときがくると思う。

ざっくり言うと、飽きられて捨てられたとき、
というのはあるだろう。
自分の勝ちパターンはあるが、
それを使わないとして、という縛りプレイをやらないと、
新しいパターンは生まれない。
それはとても厳しい忍耐が必要だ。

第一線でいる時間は短い。
数稽古をやる時間のほうが長いだろう。
もちろん、トップラインでなくて、
少し後方で戦うことも人生には多い。
そして、多分その時間のほうが長い。

数稽古の成果は、
そうしたとき自分を助けてくれるはずだ。

体さえ壊さなければ、
いくらでも数稽古は詰める。
暇な時間があれば、
短いストーリーをつくることで、
負荷を抑えながら数稽古ができる。
締め切り駆動じゃないやり方を身につけておくべきだろう。


カメレオン俳優という言い方がある。
数稽古は、カメレオンになるための練習である。

一発屋で終わる人生か、
長いことをストーリーを語る人生か。
僕は、長いことやりたいね。
posted by おおおかとしひこ at 00:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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