これはいくら言っても言い過ぎではない、
重要なことである。
何故だろう。
「正解のないこと」をするからだ。
正解のあることに対しては、
反復練習は有効だ。
受験勉強は正解があることが前提である。
だけど勉強のように整理された空間が、
現実ではない。
正解があるかどうかもわからない、
現実的な解と理想的な解が矛盾する、
なんてことも、現実にはたくさんある。
それらの中で、よりベターな解を出す練習は、
ただの反復練習では身につかない。
どうすればいいかというと、
試行錯誤の経験値だ。
正解があるかわからない状況や、
複数解があるような現実的な文脈では、
試行錯誤の経験値による、勘だけが、
試行錯誤の試行回数を減らすことができる。
あるいは、試行錯誤を繰り返していると、
一定の勝ちパターンをつくることができる。
作風と言われるものだ。
あることを突破するときに使える特定の手順、
みたいなものだろうか。
それがあれば、まあなんとかなる、という奥の手でもあるだろう。
これを作り出すために、
試行錯誤はあるともいえる。
あるいは、失敗の経験である。
「似た状況のとき、かつてこうやった。
なぜダメだったんだっけ」
という反省があればあるほど、
「いまその選択肢を取るべきではない」ということが、
身に染みてわかるはずだからだ。
それは理屈ではなくて、
「痛い目にあった」という反射的なことだから、
反射的に却下できるわけだ。
こうして、
複雑な状況でも、
そっちはハズレで、こっちはアタリだろう、
という勘が生まれるのだ。
つまり、
数稽古の目的は、
勘を鍛えるためだ。
そういってしまうと身もふたもないが、
真実なんだからしょうがない。
つまり、試行錯誤の記録は、ほとんど意味がない。
それらを超えた、
「なんとなくこうな気がする」の感覚が重要だからだ。
勘が働かないときだけ、
理屈を使うことになるだろう。
そのときに、記録や分析が生きるとは思うがね。
数稽古は、
作風の確立に重要だが、
それ以外の作風へのチャレンジも可能にする。
一個の作風を生み出すには膨大な時間が必要だけど、
それだけでは勝てない。
すぐに飽きられるからね。
自分も飽きるだろうし。
だから、また違う作風にチャレンジするのは、
リスクを伴うわけだ。
だから数稽古をしておいて、
複数の作風を身につけておくべきだ。
これは第一線に立ってしまったら、
なかなかやる時間がないだろう。
だから、第一線に出る前の、若い時に徹底しておくべきだ。
また、いったん第一線から退き、
角をためる時期がいつか来るので、
そのときにまた違う数稽古をやるときがくると思う。
ざっくり言うと、飽きられて捨てられたとき、
というのはあるだろう。
自分の勝ちパターンはあるが、
それを使わないとして、という縛りプレイをやらないと、
新しいパターンは生まれない。
それはとても厳しい忍耐が必要だ。
第一線でいる時間は短い。
数稽古をやる時間のほうが長いだろう。
もちろん、トップラインでなくて、
少し後方で戦うことも人生には多い。
そして、多分その時間のほうが長い。
数稽古の成果は、
そうしたとき自分を助けてくれるはずだ。
体さえ壊さなければ、
いくらでも数稽古は詰める。
暇な時間があれば、
短いストーリーをつくることで、
負荷を抑えながら数稽古ができる。
締め切り駆動じゃないやり方を身につけておくべきだろう。
カメレオン俳優という言い方がある。
数稽古は、カメレオンになるための練習である。
一発屋で終わる人生か、
長いことをストーリーを語る人生か。
僕は、長いことやりたいね。
2022年08月05日
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