2022年08月06日

下手な文章の特徴

とても簡単だ。

書くべき部分を書かずに、
書く必要のないところをたくさん書いてある、
だと僕は思う。


木の中から仏像を彫るイメージだ。

書きたい内容がまずないならば、
書き始めてはいけない。

途中まで想像できてるが、
部分が欠けているのは、
仏像の手足がまだ木の中のどこにいるか、
イメージ出来てない状態だ。

そんなんで見切り発車したら、
たいてい上手くいかず、
辻褄あわせに時間と手間ばかりがかかり、
レベルの高い仏像が出来上がるとは思えない。
(最悪、東京五輪の開会式のような、
何がしたかったのか分からないつぎはぎになる)

だから、仏像の全体が見えるまで、
木をじっと見つめることだね。


仏像をイメージするということは、
「それをどうやって掘りだすか」という、
段取りをイメージすることでもある。
どの順で掘りだすかで、
ソリやワレを防げるだろうし、
どの順で掘り出しても作業しやすい、
というわけではないだろう。

ざっくり全体のアタリをとって、
徐々に細かくしていく方式が主流だけど、
ほんとにイメージ出来てたらいきなり最終レベルでやり出す人も、
まあ稀にはいるだろう。

で、本題。


その仏像が正しくできてるとは、
彫り込むべきところがきちんと微細に表現されていて、
過不足なく出来ていることである。
どうでもいいところのディテールが凝ってたり、
手足の数が多すぎたり、
あるいはもっと顔を見たいのに適当彫りになってたら、
仏像としての完成度は低いわけだ。

つまり、
うまい文章は、
書く前から理想形が見えていて、
その通りに彫り出されたものなんだよね。

書くべきところを書くようにして、
書かないべきところを省略していくには、
最初から全体の詳細が見えてないと、
べき/べきでないの判断つかないもんね。

筆が走って脱線することも多少はあろうが、
全体で見た時の本論がしっかり書けていなければ、
本末転倒というものだ。


だから、
うまい文章を書きたければ、
事前に頭から尻まで決めときなさい、
というだけにすぎない。

書き込むべきところをしっかり書き、
書かないべきところはささっとすませば、
それでうまい文章の完成だ。

難しい言葉をたくさん知ってるとか、
名文を書けるかどうかとかは、
お化粧がうまいという程度のものだ。

すっぴんで美人なら、べつに加工の必要はないものだ。

うまい文章を書こうとして、
化粧に失敗した初心者になる人は、
まあまあ僕は見てきている。

その化粧を剥いでみろよ。
すっぴんで持たないから化粧で誤魔化してるのは、
バレバレだぜ。


そもそも、その文章は書くべきなのか?
書かれたあとどのように受け入れられるのか?

そんなことまでイメージ出来てないと、
仏像が見えたとはいえまい。


あなたの物語は、
そもそも書くべきか?
書くべきなら、
書きこむべき所を書き込み、
書き込むべきでない所は、書き込まなければ、
自然といいものになるだろう。

木の中にいた仏像が、いいものだという確信があって、
はじめて彫り始めたはずだからね。

「どうなるかわからないがやってみよう」
の精神は大事だが、
文章に関してはそれはない。

書く前からいい内容だとわかってないものは、
書く価値はないよ。

労力と出来が、見合わないぜ。
posted by おおおかとしひこ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック