とても簡単だ。
書くべき部分を書かずに、
書く必要のないところをたくさん書いてある、
だと僕は思う。
木の中から仏像を彫るイメージだ。
書きたい内容がまずないならば、
書き始めてはいけない。
途中まで想像できてるが、
部分が欠けているのは、
仏像の手足がまだ木の中のどこにいるか、
イメージ出来てない状態だ。
そんなんで見切り発車したら、
たいてい上手くいかず、
辻褄あわせに時間と手間ばかりがかかり、
レベルの高い仏像が出来上がるとは思えない。
(最悪、東京五輪の開会式のような、
何がしたかったのか分からないつぎはぎになる)
だから、仏像の全体が見えるまで、
木をじっと見つめることだね。
仏像をイメージするということは、
「それをどうやって掘りだすか」という、
段取りをイメージすることでもある。
どの順で掘りだすかで、
ソリやワレを防げるだろうし、
どの順で掘り出しても作業しやすい、
というわけではないだろう。
ざっくり全体のアタリをとって、
徐々に細かくしていく方式が主流だけど、
ほんとにイメージ出来てたらいきなり最終レベルでやり出す人も、
まあ稀にはいるだろう。
で、本題。
その仏像が正しくできてるとは、
彫り込むべきところがきちんと微細に表現されていて、
過不足なく出来ていることである。
どうでもいいところのディテールが凝ってたり、
手足の数が多すぎたり、
あるいはもっと顔を見たいのに適当彫りになってたら、
仏像としての完成度は低いわけだ。
つまり、
うまい文章は、
書く前から理想形が見えていて、
その通りに彫り出されたものなんだよね。
書くべきところを書くようにして、
書かないべきところを省略していくには、
最初から全体の詳細が見えてないと、
べき/べきでないの判断つかないもんね。
筆が走って脱線することも多少はあろうが、
全体で見た時の本論がしっかり書けていなければ、
本末転倒というものだ。
だから、
うまい文章を書きたければ、
事前に頭から尻まで決めときなさい、
というだけにすぎない。
書き込むべきところをしっかり書き、
書かないべきところはささっとすませば、
それでうまい文章の完成だ。
難しい言葉をたくさん知ってるとか、
名文を書けるかどうかとかは、
お化粧がうまいという程度のものだ。
すっぴんで美人なら、べつに加工の必要はないものだ。
うまい文章を書こうとして、
化粧に失敗した初心者になる人は、
まあまあ僕は見てきている。
その化粧を剥いでみろよ。
すっぴんで持たないから化粧で誤魔化してるのは、
バレバレだぜ。
そもそも、その文章は書くべきなのか?
書かれたあとどのように受け入れられるのか?
そんなことまでイメージ出来てないと、
仏像が見えたとはいえまい。
あなたの物語は、
そもそも書くべきか?
書くべきなら、
書きこむべき所を書き込み、
書き込むべきでない所は、書き込まなければ、
自然といいものになるだろう。
木の中にいた仏像が、いいものだという確信があって、
はじめて彫り始めたはずだからね。
「どうなるかわからないがやってみよう」
の精神は大事だが、
文章に関してはそれはない。
書く前からいい内容だとわかってないものは、
書く価値はないよ。
労力と出来が、見合わないぜ。
2022年08月06日
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