2022年08月08日

才能って目減りするのかな

ダイヤの原石を磨くとか、
鍛えるとか、
色々なたとえがあるけれど、
一旦発掘された才能は、その後どうなるのか、
誰も教えてくれない。


ダメなプロデューサーたちは、
伸びてきた草をそのまま収穫して、
餌はあげない人が多い。

つまり、勢いがある人が出てきたら、
とりあえず買い付けて、
あとは勢いがなくなったら捨てる。

そこに才能と才能のミックスアップは、
あまりなくて、
なんだか事務的である人が増えた。

漫画で見られるような、
お互いが高め合う感じは、
僕は数名でしか経験したことがなく、
あとの百人単位は、
ゴミみたいなプロデューサーだったな。
もちろん相性もあったのだろう。

このような現状では、
才能は一旦花ひらいたらしぼむ一方で、
疲弊したら死ぬみたいなことになっている。

僕の理想は、才能が才能と出会い、
混ざり、高めあい、独立して、
さらに高みに登ってゆく世界なのだが、
買い付けレースに参加する人は、
ただ才能の波乗りをするだけみたいだ。

それは搾取以外の何物でもないと僕は思う。


さて。
我々は、その現状を理解した上で、
自分の才能をすり減らしたり、
搾取され過ぎないことを考えなければならない。

ただ、
才能は、すり減ったり、蒸発するものかは、
まだ分かっていないことが多い。

時代との親和性とか流行りにちょうどいい感じは、
偶然によるところが大きいが、
実力的な部分は、
蒸発はしない気がする。

ただ、切った刀はなまくらになることが多い。

これは、一度通用した技は、
二度と大衆に通用しないからである。
(聖闘士か)

だから我々は、
次々に形を変え続ける必要がある。


一旦どんでん返しで受けたナイトシャマランは、
どんでん返し作風を期待されるがため、
おかしな方向へ行ってしまったように見える。

だけどシャマランは賢くて、
作るたびにジャンルを変えていたんだよね。
幽霊探偵、世界革命とダークヒーロー、
閉鎖的村、キリスト教の信仰など、
どんでん返しをやりながら、
ジャンルを変えて、テーマを変え続けた。
テーマのない「ハプニング」ですら、
ネタ切れではなく自分の才能を他に広げるための、
実験だったんじゃないかとすら思える。

そうして一周まわったあとの、
「ミスターガラス」は最高傑作になったので、
才能を磨き続けて、
他に伸ばし続ける才能も、
必要だと思うんだよね。


つまり、
才能を伸ばすには、実験しかない。
なんでもいいから試すのだ。

成功したら世に出して受けよう。
失敗したら封印して、
なぜだめだったか反省会をして、
次の実験ネタを思いつくのだ。

そのPDCAサイクルを回すには、
小さいループがいいことは自明だ。
短編をたくさん書けというのは、
このことを言っている。
とりあえず100本も書けば、
何が成功で何が失敗かくらいは、
自分で分析できるだろう。

また、自分で成功だと思ってなくても、
他に似たものがないからという理由で、
あるいは、
他に似ているからという理由で、
意外な評価を受けることがある。

つまりは何が評価されるかはわからないから、
沢山つくって吐き出すチャンネルをつくっておけ、
ということである。

僕がこのブログを立ち上げたときは、
「作品置き場」と称して、
没った企画を全部アップする場にしようと思ったんだよね。
でも仕事で関わったやつのアップ禁止みたいになったので、
自主分しかあげられなくなってしまった。
残念だ。


アマチュアならば、
書いた短編シナリオ100本アップするブログを作ったっていいと思う。

僕はなんのしがらみもない小説はアップしていて、
ひそかに書き続けた「てんぐ探偵」は、現在103話を終えたところだ。
(まだ第一稿なので、発表には時間がかかります)

自分が何が評価されるかなんて、
自分で決めてもしょうがない。
評価するのは他人で、自己評価は自己評価でもっとけばよい。


才能とは、たぶん出し続ける力のことだ。

ゴミでもダイヤでも出し続けて、
当たりをそのうち出すだけのことだ。

100発100中の才能なんて多分ないし、
毎回当たりを出せるわけないし、
才能は目減りするから、
常に出し続けて鍛えるしかないんだね。


男子の中にある都市伝説で、
生涯に作れる精子の量が決まっているから、
全部出したら終わり(赤玉が出る)、
というものがある。

これは有限と考える考え方だ。

僕は才能はこうだとは思ってなくて、
根を伸ばし、他の栄養を吸収して大きくなる、
樹木のようなものだと思っている。
同じ土壌から吸い続けると枯れるのも、
似ていると思う。

石油はあと○十年で枯渇すると、
精子モデルのように言われてきたが、
現在は地中でバクテリアが分解して、
増えているのではと考えられている。

僕の考える才能は、後者のモデルに近い。


まあ、枯れるまでやるのは誰もが同じだ。

面白いものへの要求は年を取るたびにキツくなるから、
自分OKはどんどん厳しくなり、
数を作ることは厳しくなる。

たまにはそれを取っ払って、
やったことないものに挑戦するのも、
根を伸ばす意味では面白いと思う。


この人はこの才能だからこの仕事を振ろう、
なんて考えるプロデューサーは馬鹿で、
ただの搾取者、買取者である。

あなたにはこのような才能があるが、
実はこれもやってみたら出来るんじゃない?
と、全く違う餌を与えて実験の機会を与えるのが、
すぐれたプロデューサーで、
才能の正体をよく分かっている人だと僕は思うよ。


なんか分からんけどやらせてみよう、だと
ただの無責任で放置だから、
その間の見極めが難しい。

僕が大昔にデビューしたとき、
「お前は助監督のときと目つきが変わってきたから、
そろそろデビューさせようと思う」
とプロデューサーは言った。
才能がわからなくても、
そういう人として見る人も、
最近いなくなったよなあ。
内面の充実や横溢は、側で見てれば気付くかも知れないよね。



才能は、あるとかないとかじゃない。
自分で育て、転がし、広げるものだと思う。
常に一番苦手なやつにトライするくらい、
実験クラスなら全然OKだろ。
posted by おおおかとしひこ at 12:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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