2022年08月13日

抽象を具体に変換する

とくに長い物語でやるべきこと。
短い物語と比較して考えようか。


俳句を例にしようか。
古池や 蛙飛び込む 水の音
で考えよう。

短い物語では、
具体がなくなり、抽象であるほど、
想像が膨らむというものだ。

どんな池かなあ、古い池か、雰囲気がありそうだ。
蛙の種類はどんなだろう、アマガエルかな、ウシガエルかな。
時間帯は昼間? 夜? 夕方?
雨が降っている? 晴れている?
落ち葉が池一面に? それとも凪?

これらの要素は、抽象化されて、捨象されている。
短いものは、省略すればするほど、
想像が豊かに膨らみ、
内容が文字数よりも豊かになる。

つまり、短いものは、意図的に抽象化すると効果的だ。
冒頭の芭蕉の俳句は、
どんな池だろうが、どんな蛙だろうが、
どんな時間帯でもどんな季節でも成立する抽象性について、
詠んだものであるわけだ。
だから待ちが広く、だから人々に受け入れられる名作になったわけだ。


一方、長い物語ではそうはいかない。
この古い池がどのようなものであるかが、
物語に影響を与え、
この蛙がどのような事情を持っていたのかが、
物語に影響を与えるからだ。
それらが明らかにされていないと、
「なんでそこをぼかしているのか」がとても気になる。
抽象化はぼかしに見える。
付き合っている恋人たちが、
「私たちの将来はどうなるの?」という質問に、
「さあね」とぼかしたら、
こいつ結婚する気はないな、とばれてしまう。
ぼかすことは「意図」を感じるわけだね。

だが、
どんなに池や蛙のディテールを詰めようが、
この俳句のテーマ、
「ひとつの音で、逆に静寂を感じた」には、
影響がない。
そういう構造になっているからね。

だから、このテーマを表現するような、
逆にディテールを詰めたものをつくるのだ。

戦争で爆撃があったとしよう。
そのことで街が壊滅して、
全員が死んだとしよう。
死体の山、山、山。
猫がミャーと鳴くが、誰も答える人がいない。
あるいは、ハエだけがぶんぶん言っているだけ。

そのようなディテールに変換することで、
「ひとつのうるさい音が、逆に静寂をわからせる」
ということに落とすことが可能だね。
核爆弾を落とされた渋谷が壊滅したあと、
三千里薬品の街頭ビジョンだけがやかましく音を出しててもよいよね。
そしてそれが火花を出して壊れて、
永遠の静寂がやってくるのだ。


これらは、
古池とか種類を指定していない蛙よりも、
ディテールを詰めることで、
より長い物語に適した恰好になっている。

さらに長い物語では、
どんどん設定を詰めていってよい。
なぜなら、その具体のほうが感情移入しやすいからだ。

父と娘の話よりも、
リストラされそうな父と、
いじめられて自殺を考えている娘にしたほうがよいのだ。
一般的な事務会社の話にするよりも、
部品工場の話や、
漁師の話にするほうが面白いのだ。

それらの具体の中にある、
「誰にも共通の抽象的な部分」に人は反応するからだ。
逆に、「誰にも共通の抽象的な部分」に反応させるために、
ディテールを細かく描くのだ。

つまり、
短い物語と、長い物語は、
「誰にも共通の抽象的な部分」に到達させるために、
方法論を真逆から行っている。
短い物語は、ディテールを捨てることで。
長い物語は、ディテールを詰めることで。

短い物語は、誰にも共通の部分を見せるために、
ディテールをわざと落とす。
長い物語は、一見奇妙で人目を惹く、特殊な世界を描いて、
そこに「誰にも共通の部分があるぞ」という仕掛けをしていくわけだ。

長い物語が、短い物語に対してなぜ難しいのか、
ということの答えがここにある。

短い物語は省略すればだれにでもできる。
長い物語は省略ではなく、埋め込みだからね。

短い物語は、人とか、人生とか、
抽象的な言葉で語ることができる。
「人としての在り方」とかね。
長い物語は、
「あるこの人についての具体的で、へんてこな物語なのだが、
誰にも共通の、人としての在り方について語っている」
という風につくるんだね。

その違いだ。


今書いている話では、
人の集団の共通の特徴について書こうと思い、
会社を舞台にしようとしたのだが、
抽象的な会社、たとえば商社にしようとしていた。
一般的なサラリーマンの話にしたほうが、
抽象的なその話はしやすいのではないかと思っていた。
しかし、それは抽象的で面白くないから、
具体的に面白い、
たとえば漁業組合の話にならないか、
とか思い出している最中である。

最終的に漁業組合にはならないかもしれない。
ビリヤード場の話になるかもしれないし、
個人喫茶店経営の話になるかもしれないが、
そういう「具体的に面白いモチーフ」に、
「人類共通のテーマ」を見出すようにつくったほうが、
結果面白い長編になるぞ、
ということを考えているわけだ。

そして、その具体がおもしろいモチーフが見つかったときに、
「これは長編になる」という確信が生まれるんじゃないかなあ。
posted by おおおかとしひこ at 00:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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