2022年08月18日

思い付いた初手は何か

何を思い付けば、「これはいけるぞ」って思うのだろう。
人によっても違うけど、
僕は、「これは今までにない面白いものになるぞ」
というときであるべきだと思う。


要素はふたつあって、
「今までにない」と、「おもしろい」だ。

よくあるやつなら、新しくつくる意味がない。
おもしろくないなら、つくる意味がない。

今までにないかどうかはとても重要だと思う。
まったく似たアイデアがあれば却下だろう。
似ている何かが先行していたとしたら、
パクりでないように、オリジナリティを加えて、
本歌取りにしてしまうだろう。

ところが、
これが昨今のビジネスのスタートと非常に相性が悪いことがわかっている。

ビジネスは青写真が必要で、それは投資を得るためである。
「今までにないもの」をつくるのに、
青写真を見せないといけなくて、
それが儲かるという保証をしなければならない。
そんなもん、つくってみないとわからないのに、
つくる前からその波及効果をプレゼンしないといけないわけだ。

まあそれは口の上手いやつが嘘をついてなんとかすればいいはずだ。
ところが、口が下手なやつらが、
「プレゼンを通りやすいネタ」でやろうとする。

これまでと同じもの、
これまでと似たもの、
これまで実績があるもの、
をつくろうとする。

「今までになかった斬新な新しいもの」は、
こうして生まれなくなり、
初手で「今までになかった面白いもの」を思い付くやりかたが、
最初から違うといわれることになる。

これで、
我々と投資家たちと、間に立つ人たちが、
齟齬を起こし続け、
爆死し続ける、というのがここ15年くらいの邦画の流れだと僕は感じている。

まあ、その業界ごと仕組みが変わるわけはないので、
もう僕はそこじゃない仕組みで、
創作をしていくしかないかなあ、なんて思っているのだが、
答えが出ているわけではない。

だけど、新しくて面白いものをつくるコツは、
初手から違うぞ、
ということをここで解説しておきたい。


つまり、
「思い付いた! これでいけるぞ!」
と確信するポイントは何か?
という話である。


あなたのアイデアが素晴らしいかどうかは、
あなたの主観では判断できない。
あなたが主観的に面白くて最高だと思っていても、
広い目で見たら、
すでにあるものにしかすぎず、
しかも面白くない可能性もある。

だから、初手の思いつきの時点で、
誰かに相談するといいかもしれない。
それは、そのことがわかる人間に限るとよいだろう。
なぜなら、
そのことがわからない人は、
「新しいことが怖い」からである。
なんにせよ、怖いことを、言い訳をつけて却下することが多いから、
相談するべき人は、
「新しくて面白い」がわかる人にするべきだ。

あなたが「いける」と思った確信は、
でもその人もわかるとは限らない。
それは新しさがたりないとか、面白さがたりないとか、
その新しさや面白さがわからないということだってある。
だから、そのための企画書なのだ。
企画書は、
「わからない人にもわかるように書く」ことが求められている。
「誰にもわかるように書く」さえできれば、
それは企画書になるのだ。

「読んだけどわからなかった」には二種類ある。
企画書がまずかったか、
「いける」と思ったことがまずかったかだ。
どちらかはわからない。

だから、
「私はこれが新しいと思う」
「私はこれが面白いと思う」
の、ふたつをまず並べろ、
と僕は言いたいわけだ。

その二つ、どちらかが欠けていても、
つくる意味などないからだ。
その最低限必要なものが、この二つだといってもよいと思う。

他にも要素はなくもない。
「売れる」だね。
これは商売人があとづけすればいいと思う。
人気芸能人が出ているとか、
今ブームの〇〇を使っているとか。
それだけで売れるかどうかの保証にならないことは、
数々のブームの仕掛けが失敗していることで明らかだ。
ただし人は保証を欲しがるから、
それはあとづけすればよいことであって、
初手で考えるべきことではないということだ。


あなたはアイデアを練る。
いろんなことを考え、いろんなことを調べるだろう。
で、そのうち「来た!」と思う。
その確信を形にするためにメモを取る。
そして客観的になるのだ。
それのどこが新しいか?
それのどこが面白いか?
この二つの問いに答えられるかを考えるのだ。
もしそうでなかったら、
そうなるように、アイデアをまた練っていくことだね。

すごく面白いどんでん返しを思い付いたとしても、
それだけでは作品にならない。
どんでん返しが斬新で新しいなら別だけど、
そうじゃない場合、
新しい斬新な何かの中で、そのどんでん返しが起こるようにしなければならない。
あるいは、非常に斬新で面白いガワを思い付いたとしても、
肝心の中身のストーリーが面白くないならば、
単なるファッションでおしまいだ。

感動するストーリーがあったとしても、
それだけでは新しくないわけだ。
感動するのにカレーが食べたくなるとか、
そういう新しさならいいよ。

どう新しいものにするかについては、
色々なやり方があるだろう。

新しいものを探して、それに乗っかる(すぐに流行おくれになる恐れがあるが)、
あるものを組みあわせて新しくする、
あるものから引き算して新しくする、
あるものを逆にして新しくする
(コロンボの犯人側から逆に描く、というスタイルは新しかったわけだ)、
あるものを何かに置き換えて新しくする、

などがあるだろうか。
これらに絶対力があるとは限らない。
なぜなら新しいものをつくるには法則がないからだ。


人工知能に絵を描かせる遊びが流行ったが、
結局ビッグデータを組みあわせてつくっているだけだから、
新しいものがでてこなくなるわけだね。
それだけは人工知能にはできない。
ただ、十分な既存のものがネットにころがっているから、
それらの順列組み合わせが飽きられるまでは、
流行ることになると思う。

何かに似た画風(この場合ゲームのアート)
でまだ描かれていないものを描く、
ということがおもしろかっただけで、
すべてをその画風で描いたあとは、
急速に飽きられるだろう。

新しく画風を追加しないと、その面白さは半減するだろうね。
画風のジェネレーターじゃないからね。



あなたの思いつきは、なに?

何が新しくて、何が面白い?

それは反語じゃない。
古いとかつまんねえとか言っているわけではない。
それをわからない人にも説明して、といっているわけだ。

共有できるのは、絵や既存作品じゃない。
それはそれをパクるということだからね。
言葉で言えるものだけが、
コンセプトを伝えることができる。

なぜなら、言葉には隙間があり、
これから出来る具体を特定しない力があるからだ。

言葉で全部を説明できないからこそ、
言葉で説明するといいんだよ。

隙間部分は相手の想像力に預けるわけだからね。



どんなディテールに仕上がったとしても、
新しさや面白さが保証されるもの。
それこそが作品にするべき価値のあるものだ。

その基礎にある初手を、思いつかなければならない。

そしてその要素とは、
新しいことと、面白いこと、
なのだ。
posted by おおおかとしひこ at 00:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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