2022年08月19日

走る狂気

狂気が創作には必要だ。
ある種の祭り、非日常、大冒険、日常の裏の部分などは、
狂気とともにやってくる。

しかしただの狂気だと発散してしまう。
まっすぐ走りながら狂わなければならない。


360°ランダムで方向を決めて、
しばらく走り、疲れたらまた360°ランダムで方向を変えて、
という走り方だと、
ほぼ最初にいた位置から変わらないだろう。

ランダム性は平均化されて、
95%以上は元の位置にとどまることになる。
(大数の法則)

つまり平凡な走る狂気は、
たいていちょっと変わった普通に過ぎない。
突き抜けられずに、
日常のルールに戻されてしまう。

あ、思いついたぞ、
というアイデアは狂気を孕んでいるかもしれないが、
走っているうちに日常に平均化されて、
溶けていってしまうということだ。


これは、
「何故最初はスルスルとかけるのに、
途中で詰まらなくなって辞めてしまうのか」
ということに対する一つの回答だ。


ではどうすればいいかというと、
「一直線に走る」とよいわけだ。

途中で曲がるから迷うのだ。
迷わず一直線に狂えば良い。
最も良い狂気は、ビームでも打ったように、
最初の方向に最後まで突っ走るものである。


95%の罠に囚われずに、
最後まで走るためには、
「この一直線を狂いながら走るぞ」
という計画がなければならない。

それがプロットであることは、
まあ分かるよね。


プロットとは、
ストーリーの骨格や構造を示すものであるが、
こっちの方向に狂いながら走るぞ、
という灯台でもあるんだよね。

執筆途中に方向性を見失い、
平凡の罠の中に入ってしまうのは、
灯台を見失ったからだ。

途中で、「この灯台で正しいんだっけ?」
と疑心暗鬼に囚われる瞬間もやってくるけど、
その灯台へ走った方が助かるのは、
僕のこれまでの経験が示している。


プロになって思うのは、
プロットの段階で、
狂う方向を見極められない人の多さだ。

僕は「こっちへ走るぞ」と言ってるのに、
あとで「こっちだとは思わなかった」と、
「こっちの方向に寄せてくれ」と、
変更を余儀なくされて、
ぐにゃぐにゃにされることが稀によくある。

そうじゃない。
狂う方向を確かめるために、
プロットはあるんだぞ。


常識で書かれた、
PTAがうなづくようなストーリーなんて、
社会秩序の範囲内でしかなく、
それは日常で起こるすべての組み合わせでしかない。

それは物語ではない。
面白い物語とは、
その日常の枠をどれだけはみ出ることが出来るかだ。

非常識、非秩序、裏の面などが、
うずまく場所が、フィクションである。
それが日常にどううまく帰ってこれるのかが、
物語だ。

つまり「走る方向」には二つある。
狂って破滅するか(バッドエンド)、
狂ってなお日常に戻り、
狂ったことが結果的に良かったとなること(ハッピーエンド)、
だ。

バッドエンドは簡単だ。
ハッピーエンドのほうが難しい。

そのたった一点に着地するために、
灯台の灯りをつけておくのである。


たとえば執筆に一ヶ月かかると、
不安になってしまい、灯台は偽物だと思い込んでしまう。
そういうことを経験して、
やはり灯台は正しいのだ、と経験することも重要だ。
まずは15分とか30分とかの、
「一日で書ける量」のストーリーを書くことをすすめる。
そうすると、灯台を信じて進む経験が積めるぞ。


物語は走る狂気である。
しかも、まっすぐに進む。
だから強い。
posted by おおおかとしひこ at 09:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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