悲劇が物語の必要条件ならば、
その悲劇についてもう少し考える。
それは避けられたか?
避けられたならば、
それは心の傷になり、
以後それを避けるような人格になるだろう。
避けられなかったら?
運命を受け入れるしかない。
その「運命を受け入れる」過程はどうすればいいだろう。
あるいは、避けられた悲劇を、
避けられたのにと後悔する過程はどうすべきか。
何シーンも悲しみを背負うのは得策ではない。
何シーンも悲しみを書いてしまうのは、
実は作者が出口が見えてないからだ。
ただ悲しみを現在進行形で書いてしまうため、
それをずるずると引きずってしまっているだけなのだ。
もちろん、観客の受ける悲しみよりも、
早く立ち直ってしまえば、
「立ち直りの早いやつだな」になってしまうし、
ずるずると悲しみを引きずってると、
「それは分かるけど、展開してよ」になるだろう。
つまり、
悲劇と立ち直りのセットは、
観客の呼吸にあわせるべきだ。
また、悲劇は立ち直りとセットで、
はじめて効果のある必然だ。
どう立ち直るのかが計画されていなければ、
ただ辛い悲しみのトンネルに入っただけになる。
「悲しみのムードに包まれています」
だけになってしまい、ほんで?になるだろう。
現実で悲劇が起こった場合、
立ち直らせるのは、
「やることができたとき」ではないかと思う。
フィクションでも同じで、
いつまでもその後悔に浸っていないで、
走らなければならない、
という状況に追い込むのがよいだろう。
そうでなければ、
いつまでも感情は停止してしまう。
避けられたはずなのになぜ避けられなかったのか。
あるいは、避けられないものであったのか。
客観的にはどちらかだったとしても、
主人公にとっては、
「その悲劇は、その後立ち直って、
より自分が強くなったから、
運命であった」
と思えるものでなければならない。
悲劇には、
恋人の死から、
白いシャツにカレーうどんが跳ねたまで、
色々なグラデーションがある。
どのような悲劇に遭い、
どのように立ち直り、
どのようにして以前よりも強くなったのかを、
すべてセットにしなければ、
「その悲劇は必然であった」
という風には描けないだろう。
その悲劇は避けられたのか?
なぜ避けられなかったのか?
なぜ事前に察知できなかったのか?
なぜ予兆を感じていたのに、行動できなかったか?
悲劇の渦中ではそのような後悔にさいなまれるものだ。
それは十分描いて良い。
悲しみの量だけ描くことで、
その悲しみにひたる場面があるだろう。
そのあと、
それはこのあと起こることの、
運命的必然としか思えない、
という風にならないと、
悲劇の存在の意味がない。
簡単な成長の描き方は、
似たような場面にもう一度遭遇して、
同じ悲劇を起こさないように、
思わず行動することで示せる。
そうじゃない示し方を、
工夫するべきだろう。
あなたの登場人物は、
どのようにして悲劇を乗り越えるのだろう。
立ち直り方を考えてないと、
立ち直りに時間がかかりすぎる可能性がある。
立ち直りや成長の、悲劇は伏線であることを、
忘れてはならない。
その悲劇は避けられたのか?
いや、避けることのできない、
私にとって試練だったのだ、
と最後には納得できる物語こそが、
悲劇を十分に使っているといえる。
世の中には、悲劇だけで人生が終わってしまう人も沢山いるかもしれない。
そんな人を見るのはつらい。
だから、せめて物語の中では、
納得のいくハッピーエンドをみたいのだ。
それはつまり、「それは必然だった」と、
解釈がうまくいくことだ。
2022年08月23日
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