2022年08月23日

悲劇は避けられたか

悲劇が物語の必要条件ならば、
その悲劇についてもう少し考える。

それは避けられたか?


避けられたならば、
それは心の傷になり、
以後それを避けるような人格になるだろう。

避けられなかったら?
運命を受け入れるしかない。

その「運命を受け入れる」過程はどうすればいいだろう。
あるいは、避けられた悲劇を、
避けられたのにと後悔する過程はどうすべきか。


何シーンも悲しみを背負うのは得策ではない。
何シーンも悲しみを書いてしまうのは、
実は作者が出口が見えてないからだ。

ただ悲しみを現在進行形で書いてしまうため、
それをずるずると引きずってしまっているだけなのだ。

もちろん、観客の受ける悲しみよりも、
早く立ち直ってしまえば、
「立ち直りの早いやつだな」になってしまうし、
ずるずると悲しみを引きずってると、
「それは分かるけど、展開してよ」になるだろう。

つまり、
悲劇と立ち直りのセットは、
観客の呼吸にあわせるべきだ。


また、悲劇は立ち直りとセットで、
はじめて効果のある必然だ。

どう立ち直るのかが計画されていなければ、
ただ辛い悲しみのトンネルに入っただけになる。
「悲しみのムードに包まれています」
だけになってしまい、ほんで?になるだろう。


現実で悲劇が起こった場合、
立ち直らせるのは、
「やることができたとき」ではないかと思う。

フィクションでも同じで、
いつまでもその後悔に浸っていないで、
走らなければならない、
という状況に追い込むのがよいだろう。

そうでなければ、
いつまでも感情は停止してしまう。


避けられたはずなのになぜ避けられなかったのか。
あるいは、避けられないものであったのか。
客観的にはどちらかだったとしても、
主人公にとっては、
「その悲劇は、その後立ち直って、
より自分が強くなったから、
運命であった」
と思えるものでなければならない。

悲劇には、
恋人の死から、
白いシャツにカレーうどんが跳ねたまで、
色々なグラデーションがある。

どのような悲劇に遭い、
どのように立ち直り、
どのようにして以前よりも強くなったのかを、
すべてセットにしなければ、
「その悲劇は必然であった」
という風には描けないだろう。


その悲劇は避けられたのか?
なぜ避けられなかったのか?
なぜ事前に察知できなかったのか?
なぜ予兆を感じていたのに、行動できなかったか?
悲劇の渦中ではそのような後悔にさいなまれるものだ。

それは十分描いて良い。
悲しみの量だけ描くことで、
その悲しみにひたる場面があるだろう。

そのあと、
それはこのあと起こることの、
運命的必然としか思えない、
という風にならないと、
悲劇の存在の意味がない。


簡単な成長の描き方は、
似たような場面にもう一度遭遇して、
同じ悲劇を起こさないように、
思わず行動することで示せる。
そうじゃない示し方を、
工夫するべきだろう。

あなたの登場人物は、
どのようにして悲劇を乗り越えるのだろう。

立ち直り方を考えてないと、
立ち直りに時間がかかりすぎる可能性がある。

立ち直りや成長の、悲劇は伏線であることを、
忘れてはならない。

その悲劇は避けられたのか?
いや、避けることのできない、
私にとって試練だったのだ、
と最後には納得できる物語こそが、
悲劇を十分に使っているといえる。


世の中には、悲劇だけで人生が終わってしまう人も沢山いるかもしれない。
そんな人を見るのはつらい。
だから、せめて物語の中では、
納得のいくハッピーエンドをみたいのだ。
それはつまり、「それは必然だった」と、
解釈がうまくいくことだ。
posted by おおおかとしひこ at 01:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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