2022年08月26日

「おもしろい」には三種類必要

絵や彫刻は、ワンコンセプトが面白ければ成立する。
(逆に2つ以上のコンセプトが混在すると、
つまらなくなるだろう)

時間軸を持つ物語は、三つ必要だと僕は考えている。


それは、
「おもしろそう」
「おもしろい」
「おもしろかった」
だ。


おもしろそうというのは、期待感やツカミ感だ。

おもしろいというのは、中身の実際のおもしろさだ。

おもしろかったというのは、
それが世界をきちんと閉じて、
テーマとともに完結したかだ。


「おもしろそう」が欠けると、
誰も入ってこない。
怖い顔をしてる人には近づかないし、
ホームレスみたいに臭かったらみんな逃げる。
平凡な人なら見向きもされないし、
話がややこしそうだったら敬遠だろう。

ある日日常に、花を一つ持ってくるようなものだ。
「おっ」とか、「なに?」であるべきだ。

逆立ちをしてもいい。
事故が起きてもいい。

おや、と思い、立ち止まり、
この先が気になれば、
それは「おもしろそう」に成功したということだ。

これは、冒頭だけではない。

途中の新しい展開は、すべてこうあるべきである。
何か始まろうとしたら、常に「おもしろそう」があるべき。

そうでなければ、だれるだろう。

「おもしろそう」にはいくつものレベルがあって、
毎回大爆発や隕石が来る必要はない。

書類が一個だけホッチキスが逆、
というくらいでもいい。
実はこれは社内不倫してる人達の符牒で、
それが間違って自分に配られてしまった、
というような導入でもいいわけだ。

それは、これから起こることの呼び水であればいいんだよね。


「おもしろそう」だけで、
「おもしろい」が欠けると、
詐欺になる。

ホッチキスの導入が「おっ」となったとしても、
その社内不倫の話が面白くなければ、
出オチということである。

登場シーンがピークなら、
その後を書く意味がない。
僕は常にダースモールを例に出す。
あんなにかっこよかったのに、
何のストーリーもなかった。
出た、バトル、死んだしかなくて、
ただの使い捨てだった。

そう、ストーリーとはつまり、
それらを使い捨てにしない、なんらかのおもしろいことなんだよね。

ストーリーのおもしろさとは、
面白い冗談とか、カッコいい表情のことではない。
勿論これらはウリになるから、
ばんばんちりばめていい。
だけどストーリーにしかできないおもしろさとは、
「次どうなる?」のおもしろさだ。

これがこうなった、次どうなる?
さらにこうなったかー、次こうなるんじゃない?どう?
こう来るかー、
の連続こそが、ストーリーのおもしろさである。

どうやったらおもしろくなるかは、才能であって、
技術の介入度は低いと思う。
起伏と逆に気をつけろ、
サブプロットは利用できる、
くらいしかアドバイスできないかもしれないなあ。


「おもしろかった」が欠けると?
尻切れトンボになるわけだ。

うまく完結できずに途中で放り投げられたり、
せっかく期待したのに全然ダメな終わりだったりすると、
それは駄作認定だろうね。

ラストだけ盛り上がるストーリーもある。
でもそれを見ると、
途中のつまらなさいらなくね?ってなるよね。

また、単におもしろいクライマックスだけでは、
「おもしろい」であり、
「おもしろかった」にはならない。

「おもしろかった」につながるのは、
「意味があった」かどうかだ。

ただ面白い冗談をいいました、
ただ事件が解決しました、
では「おもしろかった」という「満足」には至らない。

フルコースの料理を食べただけでは、
「おもしろかった」にはならない。

これきっかけで話すようになったとか、
これではじめて食べたものが、
その後の知識を大きく変えるものになったとか、
それを摂取した人の、
なんらかの血肉になって、
はじめて意義がある。

それは、人生に対するテーマに、
ひとつの小さな結論を出すことで得られる。

人生に関することで、
○○は○○だろうか?と問い、
○○は○○だったのだ、
と直接言わずしてもわかるようになっていて、
だからうーむと唸り、納得して、
「この話を見てよかった」
=「おもしろかった」になるわけだ。

これがないと、ただ終わっただけの、
大量消費で終わってしまうよね。


つまり、
おもしろさの三種類とは、
ツカミ(日常を壊すこと)、
展開(次はどうなる?のジェットコースター)、
満足(結論が出ること)
と言い換えることができる。

自分のストーリーのこれはなにか、
答えられるだろうか?

出来上がったもののこれを答えるのではなく、
「これから書こうとする話」の、
これが見えてるか?
という話だ。

まずこの三つを書き出して、
書き終えた時にそれが出来ていたかをチェックしよう。

最初に書き出したものに答えていない、
あるいは超えていないなら、
答えるまで、超えるまで、執筆はしなければならない。
posted by おおおかとしひこ at 11:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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