2022年08月28日

【薙刀式】脳内発声のある人は、行段系ローマ字をやると良い

脳内発声がある、ないによって、
使う配列を変えた方がいいと僕は思っている。


僕は脳内発声がないのだが、
ローマ字、カナ配列両方使ってみて、
ローマ字は脳内発声があり、
カナ配列では脳内発声がないことに気づいた。

だから自分の脳環境?にあうカナ配列を使っている。

ローマ字で脳内発声が出る理由については、
どうしても子音母音がちらつくからだろう。
行段系ローマ字に至っては、
左手子音右手母音など分かれているから、
左右の手が発音に直結してしまい、
手の動き=発音になってしまうからだろう。

どうやったって2ステップが子音母音なんだから、
逆にこれ使って脳内発声しない人いるんかな。
タイパーはそれを制御するらしいけど。
(音に出すと時間がかかるから)


JISカナやNew Stickneyのカナの配置基準のひとつに、
「同じ行のカナは近くに並べる」がある。
僕はこれに毎度疑問で、
サイトメソッドなら「近くにある」は有効だけど、
ブラインドタッチでは空間的近さは指の空間的な近さではないから、
サイトメソッド推奨なの?
と思ってしまうんだよね。

たとえば人差し指にア段イ段、中指にウ段、薬指にエ段、小指にオ段のように、
指に対して役割を振った方が「指空間的に近くにある」
と思うんだよな。触覚的空間というか。

もう一つ、脳内発声のない僕の単純な疑問なのだが、
「同じ行のカナって脳内で近い位置にいる?」
ってこと。

脳内でカナの音がしているなら、
近いのかなあと単純に疑問なのだ。

行(子音)より段(母音)のほうが、
近くにいる感じがするんだよな。
韻を踏むときやダジャレは母音合わせだしな。


僕は昔から辞書を引くのがすごく苦手で、
50音順がそもそも苦手みたい。
だって50のカナたちは、
それぞれの意味で脳内に位置をしめていて、
それが50音順で意識されたことが小学校の最初以外ないからだ。
あれは便宜でしかなくてリアルでないことは、
その後50音順で何かをすることがほとんどなかったからことから、
明らかだ。
だからそれを強要される辞書引きが、
ものすごく億劫。

クラスの休み時間、仲良いやつが集まって、
仲悪い奴とは距離を置き、
なんとなくクラスタが出来上がると思う。
それが出席番号順に並ばされた感じ。
便宜上は分かるが、友達とか仲良いとかとは遠い感じ。

つまり、友達は50音で決めてない。

カナ同士はそうしたイメージがある。

あ+るは友達だし、な+いも友達だし、
う+ん+こも仲良しだ。
出席番号順の結びつきよりもずっとだ。


だけどこれは、脳内発声のない僕の、
カナ同士の結びつき方かもしれない。

脳内発声のある人はまた別で、
こうした意味と音の、別の結びつきがありそう。
僕は昔からダジャレが壊滅的に下手で、
脳の中が母音を検索できないんだよね。

昔誰かにコツを習ったのだが、
「ふとん」をUONに分解して、
何回も曖昧に発音するんだってさ。
そうすると「うどん」「無論」「すっぽん」
などが出てくるから、
これらでナンセンスな絵を描けばいいらしい。
「発音する」という行為を挟むのがコツで、
口馴染みで決まるのだそうだ。

僕は音によるそうしたつながりが脳内にないため、
「ふとん」なら枕や夜や病気やら、
意味のある連想方面にはしりがち。


だからおそらく、
脳内発声のある人と、ない人では、
思考の様式や発想の仕方すら異なるだろうと考えている。
(まあそれでも大体会話が成り立つのが人類すごい)


さて、
なので、
もし、脳内発声があり、
なおかつ指の空間的な把握と音の把握が近いならば、
New Stickneyの考え方は有効なんだろうが、
僕がその実感がまったくないので、
まるでその恩恵が実感できないんだよね。

むしろせっかく仲良しだったクラスタが、
○丁目の班に分けられて集団下校させられるときみたいな、
変な感覚すらある。


で、そこまで脳内発声があるならば、
行段系ローマ字のほうが合理的じゃない?
とすら思うんだよね。

子音母音で整理されてる方が、
脳が楽そうな気がするんだよな。

行段系ローマ字は、大体2〜3日あれば動かせるようになる。
一週間もあれば片言だけど実戦に出れて、
一ヶ月もあれば以前の配列の8割くらいには来ると思う。

カナ配列に比べて、圧倒的に習得が楽だ。

欠点は、カナ配列に比べての打鍵数の多さ。
僕はこれが嫌になりカナ配列に転んだ。



日本語の本質は音だろうか、
意味だろうか?
勿論卵と鶏の関係だけど、
人によって脳内の環境が異なり、
第一になるものが異なる。

音によるアプローチが行段系で、
意味によるアプローチがカナ配列だ。

僕は、脳内のあり方で、
合う方を選ぶべきじゃないかと、最近は考えている。


フリックはいいところどりで、
最初は行段系なんだけど、
そのうち「線」で打つようになるから、
行段忘れて意味だけで行けるようになるんだよね。

JISカナもNew Stickneyも、
「小学生にまず最初にキーボードに触れさせるならば」
という仮定のもとにつくり、
普及配列としての使命を考えて、
その標準化を目的としているように感じる。

ところが、脳内発声ありなしの思考の違いまで、
踏み込んでいない気がするんだよな。

僕が小学生でNew Stickneyを渡されても、
違和感で使えないと思う。
一方行段系ローマ字なら、整理の意図がわかるから、
使いこなせそう。
そんな落第生を救う仕組みのほうが大事だと思うな。

まあフリックを標準化しといたほうがいいんじゃないか、
すら思うけどね。

スマホで書いたテキストエディタが、
リアルタイムでPC同期してPC保存できれば、
何の問題もないはずなのだが、
なぜそれをやらんのや。
利害関係が複雑なのかしら。

機械の不安定さなんて、キーボードもスマホも似たようなもんですよ。
データの不安定さ(デジタルメディアは10年保たない)もあるし。
鉛筆と紙という究極の安定版と、並列で教えれば済むと思うがな。



ということで、
行段系ローマ字はどこかで再評価されるといい。

tomisukeがどうなるか、この先楽しみではある。
薙刀式並に、動画つくりまくればいいのにな。
posted by おおおかとしひこ at 07:55| Comment(0) | TrackBack(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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