2022年09月09日

出来るだけ多くの人に共感されるには

共感というのは感情移入とは異なる、
とここの脚本論では強調してきた。

感情移入の作り方については詳しく書いてきたが、
では共感については逆にあまり書いてないなと思ったので。


まず目的を定めるべきだ。

出来るだけ多くの人に共感されたいか、
一部の人に共感されたいか、だ。

多くの人用は浅くて、
一部の人用が深い、
ということは関係ないものとする。

いや、簡単に面積一定の法則
(共感の深さ×共感する人数が一定)
を人は直感的に思ってしまう、
ということを注意しようとしている。

なぜか人は、
深いものの方に価値を感じるから、
「一部の人に刺さるのでいいから、深い共感を」
のほうが偉いと勘違いする。

それはマスメディアではなく、小さな芸術品だ。

もし映画屋ではなく、芸術家になりたいのならば、
そちらを目指しても構わない。

我々はマスメディアなので、
「出来るだけ多くの人に、深い共感」
を目指さなければならない、
という目的をまず確認することだ。

芸術をもって、大衆の心を動かすことを、
大衆芸術という。

この「心を動かす」は、
悪く使えば扇動になる
(事実戦争時は、戦意高揚プロパガンダに最も使われたのは映画だ)
し、
一企業の意思を持てば広告になるし、
よく使えば、
世界をよくする、考え方を更新するきっかけになる。

もちろんこれは機能のことであり、
「必ずできる」とは言っていない。

なぜなら人は同じ刺激に飽きるからで、
手を変え品を変えながらでないとできないので、
当たり外れがある。

その当たりを引くには?
という問いである。


出来るだけ多くの人に、
深く共感されるには、どうしたらいいだろう?



二つあると思う。

一つは、出来るだけ多くの人の集団的無意識について考えることだ。
今大衆は何を考えているか、というやつだ。
「今何を考えてるか」といっても、
「AはBで、CはDである」という思考をしているわけではない。
「今どんなことを良いと感じ、
どんなことを嫌と感じ、
どんなことをまだ良いと気づいてないか、
どんなことをまだ恐れだと気づいていないか」
の、出来るだけ多くの人の集団的無意識を、
把握してるかだ。

多くの読めない人は、
過去の事例が今に当てはまると考える。
過去の証拠を確かなものとして持ってくるのだ。
だけど空気はよく変わり、明日には変わることを、
誰もが知っているはずだ。
逆に読める人は、今はこうだがいずれこうなるだろう、
なぜなら流れはこのようになるからだ、
と少し未来の集合的無意識をとらえる。

マスメディアには制作時間がかかり、
発表までタイムラグがある。
我々は鉱山のカナリアとはそういうことだ。
今の時代の空気を捉えていては、
マスメディアには遅い。
少し未来の空気を捉えるには、
今の空気の中にあるダイナミズムのようなうねりを、
捉えられていなければならない。

かつてその入手先は、
テレビや雑誌や新聞や新書などが最新メディアであり、
誰かのまとめによるものが多かったが、
いまやネットに第一次情報として分散して、
自分でフィルターをかけて分析しなければ、
得られないようになっていると思う。

で、
集団的無意識が読めたらそれに合わせれば良い。
読めなかったとしても原則があり、
「出来るだけ多くの人の共通体験」を語ればよい。
だけど昔にくらべて、画一的な行動を皆がしなくなったので、
共通体験は減っていきつつあるような気がする。
かつては学校あるあるネタとかがまだ共通だったけど、
その共通性も具体から抽象になってきたような気がするね。

コロナ以降は、学校共通あるあるもだいぶ減ったろう。
あと何年かすれば、コロナもみなの共通体験として、
ある世代にとっての戦争体験のようになるかもしれないが。

ひょっとしたら、
「共通体験がほしい」こそが、今現在の集合的無意識かもね。


このように、
なるべく多くの人の(少し先の)共感を探すことが、
第一の方法だとしたら、
第二の方法は、
「なるべく特定の人に出来るだけ深く刺さる共感を探す」
ことである。

これはニッチな需要を探す方法ではない。

「誰にでも当てはまる共通の、一般の人生というのはなく、
どの人の人生も特殊だ」
からである。

そして特殊であればあるほど濃くなる。
濃くして煮詰めれば煮詰めるほど、
それが面白い限り、
人はそこに自分との共通点を見つけることができる。

特殊性の中に一般性を見出すのだ。

「この人は俺と全く違う人生で感じ方も違うのだが、
○○○みたいなことは俺にもあったぞ」と、
特殊なものから一般性を引き出してしまうくらい、
煮詰めなければならない。


人は何かを理解するときに自分に引きつけて考えるから、
煮詰めて煮詰めるほど、
どこかで共通点が偶然現れるのだ。
特殊であればあるほど見世物として面白く、
それを突き詰めれば一般性を獲得するように、
すればよいのだ。


この二つの方法論の、
どちらかをやればよいのではない。
両方をやらなければならない。

つまり、
特殊すぎて見世物になるくらいのものを、
煮詰めて煮詰めて、逆にみる人によって一般性が成立する箇所が何箇所も出てくるようなものをつくり、
それを、
少し先の集合的無意識に対して、
分かりやすく伝えれば、
出来るだけ多くの人に、深い共感を与えられる。


なんだ、つまり全部やれないとダメなんじゃん。

そうなんだよね。
王道とはこれをフルコンプした人のことをいう。

チートしたければ、
マーケティングだ。

つまり特定の世代に確実に刺さるようなもので、
保険を打つことだ。

でも付き合う人とおなじで、
保険をかけてくる人を、
人は魅力的だとは思わないよね。

マーケティングは内輪の都合にすぎず、
それが外から見えたら興醒めであることは、
人にたとえればわかるだろう。

作品とはいえ、それ全体が架空の人だと思えば、
「それは信用に足る、魅力的な人だろうか?
たくさんいる私を変えてくれる人だろうか?」
と考えることで、
見えてくるものがあるだろう。


ふわふわした空気みたいな話で申し訳ないが、
人の共感とはこのような空気的なもののはずだ。
パーツではなく全体の機能だからね。
少なくとも、パーツが精巧でなければならないのはわかるだろう。
そしてそれらが機能して空気をつくるのだ。
その貫かれた感じが、人を信用させるわけだ。


たぶん、詐欺師も同じことを知っている。
違いは目的だけじゃない?
あなたは、あなたの物語を語ることで、大衆をどうしたい?
ガラリと変えることはできない。半歩だけある方向に動かせるなら?
posted by おおおかとしひこ at 00:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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