2022年09月22日

集合的無意識になってしまっている

色々なチェック機構を通るたびに、
そのチェックの意志が加味される。
ということは、チェック機構のレイヤーがたくさんあればあるほど、
それはその集団の集合的無意識になってしまうということだ。


その集団の意識がよければ、それはよいループが回るだろうが、
集団の意識が悪ければ、悪いループが回るということだ。

つまり、「何をつくるか」という問いにおいて、
もめごとが起っては困る、
売れないと困る、
確実に儲けとして計算したい、
などという丸いものをつくろうとする集団は、
かりに尖ったもので面白く、新しいものが来たとしても、
よってかかってチェック機構のフィルターで、
そういう集合的無意識を反映させたものをつくってしまう、
ということである。


現在、CМがそんな感じ。
25年前、尖って暴れることが文化だったCМは、
いまや炎上を恐れて、
「なるべく炎上しないもの」という集合的無意識に収束している。
「この一列横並びから抜け出てやろう」という集合的無意識にはなっていない。

映画も同じくで、
「なるべく安くつくれて、
確実に儲けが確約できるもので、
芸能事務所とずぶずぶの付き合いを続けられるもので、
今後も回転していくもの」
という集合的無意識に冒されているように見える。

「新しい文化をつくり、大ヒットし、
それが日本人の集合的無意識を更新する」
というものをつくろうという集合的無意識はいないようだ。


チェック機構が増えたから、
集合的無意識になりやすくなったのだろう。

少数でつくり、OKやNGを出すチェック機構が少なければ、
多数の最小公倍数にならずに、
尖ったもので抜けられたかもしれない。

チェック機構が何重にもなればなるほど、
全然抜けられないだろうね。
いくつもの重圧にこたえなければならず、
それをすべて満たすものはないから、
無難なものにしか落ち着かず、
「心に刺さる」ことを出来なくなっている。


長引く不況で、資金回転が難しくなっているからだろうか。
一個のプロジェクトを動かすのに、
鈍重になっている。

一個のプロジェクトが多数の投資を集めないと動かないため、
利益を分配しなければならず、
つまりそれは参加する人々の集合的無意識が、
ぼんやりと広くなってしまうということだ。


僕はそれに耐えられず、
一人の意志を貫ける媒体として小説などをやってみたが、
まあ難しくて難義している。


一人では速く行ける、
みんなでは遠くまで行ける、
というのはアフリカのことわざらしいが、
僕はさっさと到達したいとずっと思っていて、
なんでついてこないんだ、って思っていた。
なので先に到達しておいて、
みんなここに来いよ、というものをつくっておきたかった。


脚本というのは、
本来そうしたものだ。

こういう新しい場所があるぞ、
俺は先にここについたから、
みんなにわかるように書いておくぞ、
というものだ。

それを理解させるものが、
企画書だ。

ここに来いよ、こんなに面白いぜ、
こんなに支持されるぜ、
ということを、見えない人にも見えるようにしてあげるべきだろう。


まあ、それを集合的無意識が、
了解するかどうかはわからない。
今の集合的無意識は、
「すでに流行ったものを加工する」ことでしかなくて、
「まだ流行っていないものを流行らせる」ことをやろうとしていない。
でもそれは芸術じゃないんだよな。

映画やドラマは大衆芸術だ。
ファインアートとはちょっと違って、
大衆にわかる、支持されるものをつくる。
ずっと先に行き過ぎるとわからないから、
わかる範囲で芸術を楽しめるようにするのである。

単なる娯楽だけでは心もとなくて、
見てよかった、見たことで世界の見方が少し変わった、
ようなものが理想だ。
娯楽でひきつけて、世界の変わり方で満足させるものである。

今、集合的無意識は、
大衆芸術を、どのように売っていくつもりなのだろうか。
たぶん、どうしたいとかなくて、
炎上したくない、しかないんじゃないかなあ。
そういう集合的無意識しか見えてこないよな。
だから、そんなものを誰も欲しがらなくなっているのではないだろうか。

最先端の映画は、「ここに来いよ」というものであるべきだ。
しかも、なるべく多くの人を取りこぼさずにだ。
今とそこに橋を架けるものでなければならない。

「橋を架けよう」「そこへ連れて行こう」
という集合的無意識と仕事をしたいな。
どこでやってんだろ。
もうそういうプロデュースの仕方は絶滅していて、
「勝手に大衆の集合的無意識と合致したものを、
買いに行く」ということにしかなっていないかもしれないがね。


つまり、大衆の求める集合的無意識と、
プロデュースする側の集合的無意識が、
どんどん乖離していっているような気がする。

少なくともYouTubeでやっている人たちは、
そこまで乖離していないような気がする。
だからみんなそっちを見ていると思う。
posted by おおおかとしひこ at 00:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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