考え方が偉大だから、この素晴らしい話は偉大なのだ、
そう思ってるなら勘違いだ。
物語は偉大な考え方の発表の場ではないからだ。
作家になりたいという人の多くは、
「偉大になりたい」という動機があるはずだ。
承認欲求と同根のことで、
出来ればセンセイと呼ばれたり、
尊敬されたいということだろう。
「偉大だと思われたい」ということだ。
「偉大なことをしたい」とは少し違う。
「偉大なことをする」ことは、
特に誰にも知られなくても偉大である。
ゴッホは己が失意の中で死んだだけで、
のちに偉大な画家と認められたことを知らない。
それでもひまわりなどのタッチの荒々しさや色のセンスは、
他の追随を許さないオリジナリティがある。
そこが偉大なのであり、
ゴッホの自己認識とは異なることに気付かれたい。
あなたは、
偉大だと思われたいのだろうか?
とくに他の人にも評価されず、
それでもいいから偉大なことをしたいのか?
ここは自分の中で分離すべきだと思う。
皆人間であるから、
偉大なことをしたら多少は褒められたいよね。
せっかく偉大なことをしても、
誰にも評価されなかったら、
腐ってしまうのもとてもわかる。
だから、
「偉大なふりだけをして、すごいと言われて自己満足する」
という自己承認のお化けができあがるのはよくわかる。
それで破滅する男の話など、
簡単に書けちゃうんじゃない?
エスカレートからのバッドエンドは、
比較的書きやすいパターンだよね。
さて、
では、誰に知られるともなく、
偉大な話とはなんだろう?
偉大な考え方の発表だから偉大なのではない。
これは、「偉い先生の言うことは偉いことである」
みたいな誤解に基づいている。
偉大な考えを披露したいなら、
物語の中でやるのではなく、
Twitterや街頭演説でやるべきだ。
その考えを広めたいなら、
動画でも作ってYouTubeに上げればいい。
それと、物語の偉大さは全く違うものだと知ろう。
偉大な物語というのは、
構成やプロットという構造が完璧で、
人物造形も深くオリジナリティがあり、
何より夢中になり、理性を忘れて感情だけになるような、
「夢中な時間でかつ大満足するもの」
なことをいう。
最近だと「トップガンマーヴェリック」が、
それに該当する。
「アベンジャーズエンドゲーム」もそうだった。
(ともに続編であるため、シリーズを見てないと意味がないが)
この2本は特に偉大な新しい考え方を披露したわけではない。
だが我々は夢中になり、
作中の人物の哲学(斬新で偉大なわけではない)に、
影響を受ける。
グースの息子の無謀だけど人を信じる心に、
マーヴェリックの孤独だけどそれでも人を助けようとする心意気にだ。
あるいは、最後に「アイアムアイアンマン」と言って死ねる人生を、
全うしたいと思う。
そのことだけを取り出せば、
たいして新しくない。
人類がこれまで紡いできた道徳や人としての生き方の、
典型例のひとつに過ぎない。
だから、そこを偉大にする必要はない。
物語の中の登場人物は、
現実の人間より戯画化されている。
清濁あわせのむところがあり、
ここまで綺麗でない人間の方が多い。
だけど物語では圧縮され、いい部分だけが抽出されていることに気付こう。
その圧縮こそが、
物語のオリジナリティなのだ。
人間の在り方は無限にある。
これまでも無限にあった。
その中で、どのように圧縮、凝縮して、
ひとつの結晶にできるか、
が、その物語の偉大さだと僕は思う。
それが斬新で偉大であるかは関係がない。
だって「誰もがそうだと思う真実」であれば、
人はそれに納得するからで、
新しいかどうかは関係がないわけだ。
むしろ、いつの時代も通用する普遍的なものが、
人の心を動かすものだと気付こう。
なぜその物語は偉大なのか?
そうした、「人間のほんもの」にアクセス出来ているから、
偉大なのだ。
あなたの哲学が斬新で有効だから偉大だったり、
よく知られているから偉大なわけではない。
人間の真実性にたどり着いているから偉大で、
ついでにあなたは偉大ではない。
作品が偉大なのであり、
あなたはそれを産んだ母に過ぎない。
母は称賛されるが子の偉大さそのものではない。
あなたは、偉大になりたいのか?
偉大な作品をつくりたいのか?
そこは、分離して考えられるようになろう。
使い分けてもいい。どうせ人間というのは清濁あるんだから。
あなた自身が偉大であるかどうかは関係がない。
作品が偉大であるようにしなさい。
芸術家というのは、そのような生き方のことだ。
偉大なふりして銀座ですごーいって言われたいなら、
別に偉大な作品をつくる必要はないんだよね。
2022年09月25日
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「アベンジャーズエンドゲーム」の話がでましたが、この映画でも顕著だったのですが、それぞれのキャラクターの背景にある「リアリティライン」がごっちゃになっている問題について、大岡さんはどうお考えでしょうか?
Aというキャラの世界のリアリティラインと、Bというキャラの世界のリアリティラインがごっちゃになって話が進む。
なるべくごまかすようにして進めていますが、私は正直鼻白むのです。
この映画も確か、戦いの佳境になってキャプテンマーベルが登場したと思いますが、わざわざ登場を遅らせたのは、彼女が早くから登場していると、もっと話が早く終わってしまうから。
他のキャラよりもはるかに強いというリアリティラインを持つ彼女を、だから早くから登場させなかった、と思っています。
リアリティライン(というかウソの種類)は一つだけという原則からすると、スパイダーマンがいる世界のウソと、キャプテンマーベルがいるウソの世界は同居できるはずがない。
この辺に関して、いつも厳しい大岡さんですが、「アベンジャーズ」に関して例外扱いするのは、やはりなにか別の根拠があるのでしょうか?
決して大岡さんを批判しようというのではなく、私が思いつかない考えで例外扱いにしているのであれば、ご教示いただけないかと思い、書き込みした次第です。
私が推察するに、長大なシリーズなので、回を重ねるごとに、徐々にリアリティラインを変更していったので、多くの観客にとっては気にならない(ごまかされている)のか? とも思っているのですが。
……それにしても、個人的には少々無理があると感じているのですが……。
ご評価なさっている作品について、このようなコメント、ご不快でしたらお詫びいたします。
ただ繰り返しになりますが、批判ではなく、大岡さんのお考えをご教示いただければ後学のためになるかと考えまして……。
よろしければお教えいただけましたら、ありがたく存じます。
クロスオーバー作品はある程度やむなしと考えます。
パラレルワールド同士が交差するところでは、
そのようなこともあるかと。
マルチバースを扱う上では、避けることはできないかなと。
SFでなくてもそれはあり得て、
共産主義と資本主義や、
田舎者と都会者や、
男子校と女子校が出会うなど、
前提や世界観の異なる民族同士が出会う話は、
たいてい「混ざる」様が描かれると思います。
結局それらは混ざり終えてひとつの新しい世界観になると思うので、
アベンジャーズは少しずつ複数の世界観を混ぜ合わせた、
ひとつの別映画ではないかなあと感じますね。
嘘は一つという原則に従えば、
「それぞれのヒーローがこの世にいる」
という部分にまとめられるのではないかと。
アベンジャーズのリアリティラインと、
アイアンマンのリアリティは微妙に異なると思います。
アベンジャーズ宇宙に、
アイアンマンが参加してる感覚ですかね。
大阪人が東京で活躍するときは、
別のリアリティラインで戦って、
大阪へ帰ったら元に戻るみたいな感覚かと。
だからアベンジャーズではなく、
アイアンマンやキャプテンアメリカ単体シリーズで、
完結させて欲しかったところですが、
この2本だけはアベンジャーズで完結しなければならなかったんでしょう。
そうした商売上のメタ文脈こみのお祭りかなと考えています。
映画をまとめたメタ映画的な。
僕がエンドゲームを評価するのは、
アベンジャーズの文脈ではなくて、
アイアンマンとキャプテンアメリカ単体作品の、
ダブル最終回としての評価かな。
一応、納得はできるような……(苦笑)。
>映画をまとめたメタ映画的な。
この感覚を認められるかどうかなんでしょうね。
あとはマルチバースという根本的な設定を受けた上での、物語の流れを大らかな心で(笑)、受け入れることができるのか、とか。
ただ初心者が創作で真似すべきことではない、と感じています。
妙な悪影響を受けそうなので、「アベンジャーズ」を見る時は「禁じ手を使っている」と思いながら、いつも見ています。
いつもご教授ありがとうございます。
メタを認めることでフィクションが壊れる、
というのは昔からあったことで、
役者の私生活と作品が切り離せてないことは、
それこそギリシャ時代からあったのではないかと想像します。
興行サイドは使えるものはなんでも使う、
というスタンスの中、
きっちりアイアンマンとキャプテンアメリカの最終回をつくった、
仕事師としての脚本は評価に値すると思いますね。
一方、メタをやると創造の足腰が弱るので、
カンフルとかドラッグみたいなものだとは思います。
まあ僕は幼少の頃、
「マジンガーZ対デビルマン」や、
「キンゴング対ゴジラ」を見てるので、
それも映画の一形態だという認識ですかね。
ドラマ版と映画版でキャスト違うやつのほうが苦手かな。
>というスタンスの中、
>きっちりアイアンマンとキャプテンアメリカの最終回をつくった、
>仕事師としての脚本は評価に値すると思いますね。
なるほど、理解できた気がします。
いつもご丁寧なご返信ありがとうございます。