2022年09月26日

では偉大な考え方を、物語形式で広められないか

これは、プロパガンダと呼ばれる、
政治的手法であることに気付こう。


典型的な例は、
愛国心を広め、戦意高揚をうたうものである。
第二次大戦で行われた、
映画による洗脳だ。

それは同じく現代でも行われていて、
宇露戦争では、
Twitterや動画で、フィクションと思われる小さな人々の物語が、
沢山拡散されているように思う。

戦争前は、
ロシアの若い兵士が列車の前で恋人と抱き合い、
演習だからすぐに帰ってくるよ、
と約束した話なんかが拡散されていた。

戦争直後は、
ウクライナの大学で出会い、恋の始まる予感の女子大生が、
大学爆撃後行方不明になってて二度と会えない、
なんて話が拡散した。

意図的にバズらせたフィクションなのか、
ほんとうに真実なのかは誰にもわからない。

今もジャーナリストが見たウクライナやロシア、
という設定の、
小さな人々の物語は沢山拡散している。

これがプロパガンダだとしたら、
やり方はより巧妙になっていると感じた。


つまり、
「映画によるプロパガンダ」は、もう古いんだよね。
コスパが悪すぎるんだよ。
何億もかけてつくるより、
Twitterで拡散する180字を考える方が、
目的に対する仕事としてはコスパがいいんだよ。
(バズらせるための架空アカウントでいいねする仕組みも含めて、
何億はかかるまい)


宗教はどうだろう。
映画をつくるよりも、
教祖が目の前で奇跡を起こしたり、
あるいは教祖と直接話をできるほうが、
なんぼかいいだろう。
CDより生演奏、ライブ、といった流れに似ている。

すごい完成度の高い同じものを、
擦り切れるまで聞くよりも、
たった一回のライブの方が、
人の心は熱狂になりやすい。
だから、その宗教の受け入れ態勢が整いやすいんだよね。


広告はどうだろう。

フィクションの物語の形で、
新しい哲学を語れる人は、
今ほとんどいない。
僕はそれをやることで映画監督の力を鍛えようと企んだのだが、
それをやれるチームでないとなかなかうまくいかないことは、
業界に入ってからわかったことだ。

物語を扱うには特別な力(IQでもよい)が必要で、
線のものを点で扱ってしまうと、
線はズタズタになるんだよな。

だから広告の主流は、点なんだよね。
タレントが出てる、一芸をする、
商品カットがドーン。

いわゆる「つまらないCM」に、
簡単に成り下がってしまう。

あるいは、僕は最近ポエムCMって呼んでるんだけど、
いい感じのエモい絵をつないで、
その企業の哲学を語る系のやつ。
そんな他人のポエムなんて誰も興味がないのに、
なぜあれをやりたがるのだろうね。
オナニーショーそのものだと、
なぜ誰も王様は裸だと言わないのだろうね。

つまり、広告のプロパガンダ手法は、
とても単純で退化してるね。


最先端では、ソーシャルグッドという考え方があたらしい。
社会的にインパクトのある何か(大抵は良いこと)をやり、
その哲学がその企業の考え方である、
などのようにアピールするわけだ。

古典的な例では恵まれない子供たちにお金をあげるやつだね。
でもそれは「その企業独自の理念や解決法や技術」
と関係ないから古い。

たとえばアルファ碁による人工知能の勝利は、
Googleの株価を爆上げさせた。
つまりGoogleは新時代を切り拓く騎手の一つになった。
これは広告代理店の企画ではないが、
マスコミへの発表のルートは広告代理店が仕切っている。

まあそれも飽和状態になってきたから、
そのアイデアも枯渇して、
別の手法をみんな考えているだろう。
メタバースの広告、Twitterの広告とか、ダサいものしか出てないが。


つまり、広告においても、
フィクションの物語によるプロパガンダは、
時代遅れである。


もしあなたがすぐれた思想家で、
偉大なる考え方を広めたいなら、
Twitterが最適解じゃない?
YouTubeでもいいよ?


つまりはフィクションによる物語は、
迂遠すぎる、ということを言いたいのだ。

偉大なる考え方を物語で広めたいと思ってるなら、
あなたは時代を読めていない愚か者だと、
自ら告白しているようなものだ。

フィクションでやるべきことは、
面白い物語をつくることだ。

そこを履き違えないことだ。



クソみたいな邦画で、
自分臭を出して、自分の思想の開陳をする人がいる。
古くは実写版「キャシャーン」かな。
あれは陳腐で実に子供っぽかった。

それを文学的とかいって、
「理解の範疇からブラックボックスに押し込める」
行為が僕はよくないと思う。

「この文学性はこれこれこのようなもので、
それはこの映画をより面白くしているか?」
という点で議論するべきだと思う。


つまり、思想の開陳は目的ではない。
それは手段やパーツのひとつに過ぎず、
目的に対して不適格ならば、外すべきものである。

すなわち、偉大なる考え方を物語で広めることは、
目的と手段を間違えているのだ。
posted by おおおかとしひこ at 00:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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