苦しくなったら思い出して試してみるといい。
あるストーリーを書いているとする。
決着をつけようにも、どういうルートでそこに至ればいいのかわからない。
あるいはどういう展開があるべきかについてもわからない。
しかし発端はとても面白く、
ただそれが勢いがなくなることが分かってしまい、
結末まで走るだけの燃料を積んでいない。
こんな風になることは、
シナリオを書いていればしょっちゅう出会うことだ。
これでも必死でいろいろ考えて、
ラストまで走ると、
その苦しみが名作を連れてくることがあるのだが、
毎回そのあたりを引くことは出来ないので、
このテクニックを思い出すとよい。
ある強力な引きだけつくっておいて、
「30年後」と、時間を飛ばしてしまうのである。
30年もたてば世界は全く変わってしまう。
勢いのあったものは廃れ、
まったく違うものが台頭して、
若かった者は壮年となり、
少年たちは世界の中心の大人になっている。
老いた者はもうこの世にいなかったり、
まだ生きている者もいるだろう。
支配的だった構造は変化して、
あるものはもうなかったり、
まったく違う原理が支配していることになるだろう。
30年前はテレビが中心だったが、
今はネットが中心みたいなことだ。
東京オリンピックの失敗や、コロナなんて30年前はなかった。
そういう感覚の違い。
想像力を働かせれば、
まったく違う世界へ、
登場人物を飛ばすことが出来るだろう。
タイムスリップではない。
実際の時を生きると、人は変わってしまう。
それでも変わらないものがある。
それが、ストーリーで重要なことだろう。
あの時の気持を持っているとか、
あの時の約束を果たそうとしているとか。
30年前のあの伏線を、
今どうしようとしているのかとかが、
テーマになってくるわけだ。
そして30年前の引きが、
今復活して、「あの時の続き」がはじまり、
決着をつけようとなってくるわけだ。
ただ普通に決着に持ち込むよりも、
こうして時を経たほうが面白くなる場合がある。
それはつまり、
そのままだとテーマ性がたりないが、
時を経た決着だと、
テーマ性が付加される可能性があるということ。
それほどのものがあるかは、ストーリー次第だけど。
でも「子供のころを大人になってても覚えていて、
それを実現するときがやってきた」
なんてのはとても素敵なテーマになるときがあるよね。
そういうことだ。
なかなか「間で時を飛ばす」というのは、
やったことがないと思いつかないかも知れない。
でも一回それを経験しておくと、
一手として使えるものになるから、
試しに一回書いてみるといいよ、
ということ。
ただ、テクニックとして飛ばすだけだと、
「ただ飛ばしてごまかしただけ」になるから、
30年時が飛んだなりの、
テーマ性が必要になる。
「なるほど、それを描くために飛ばしたのだな」
ということがわかると、
それがテーマになってくるわけだ。
人間の変化や、変化しないことが、
テーマに関わってくるだろう。
それをどう描くかはストーリー次第。
ただ、飛ばしたことで、
それまでなかったテーマに、気づくこともあるかもしれない。
時を経た試練が、テーマをうまく醸成するかもれしない。ウィスキーのようにだ。
まあただ腐ったり、消失してしまうこともあるかもだが。
これで思い出すのが、
井口昇版の「電人ザボーガー」だ。
二部制は失敗している。何故か、考えよう。
胸を熱くさせる青年編と、
その30年後だったかは定かではないが壮年編の、
二部構成だ。
僕は若者だけで突っ走ったほうがおもしろかったと思っている。
壮年編は「大門豊がオッサンになってしまっている」
というビジュアル上の面白さだけで終っててしまい、
存在意義が不明になっているのが、
失敗の原因だと思う。
すでに肉体的に戦えないから、
別の手段で戦うとか、
ザボーガーや機械は歳をとらないとか、
人間の命と機械との対比とかがテーマに絡んでくれば、
何か意味があったのかもしれないのに。
つまり、「二部制にどういう意味があるのか」
ができていれば、
それはストーリーとして意味があり、
興奮するというわけだ。
大河もので昔よくあったパターンは、
第二次大戦の因縁が、
戦後でもまだ続いていて、
ナチスで悪いことをしまくったやつが、
戦争が終わって断罪されずに、
逃亡して平和な人間のふりをしていて、
人間らしさを取り戻した30年後に、
ナチスに殺された家族の生き残りに知られ、
殺される、
というようなやつだ。
戦争というものと、戦後の平和というふたつの時代を経て、
因縁を昇華するパターンだね。
30年というのがそれくらい興味深く作用すると、
面白くなると思う。
ザボーガーは30年飛ばす意味がまったくなかったため、
なんで二部制になったんだっけ、
がわからない。
せっかく青年編は勢いがあって面白かったのだから、
これでやったらええやんけ、と思ってしまう。
壮年編があることで企画会議が通り、
製作にこぎつけたとしたら、
その企画を通したやつは、ぼんくらでシナリオを見る目がない。
壮年編は企画としては面白いが、
それがストーリーやテーマにとって何が意味があるのかね?
という問いを発生させられない時点で、
ストーリーというものを理解していないということが分かってしまう。
「見ている人はそういう年齢の観客だから、
感情移入しやすい」という言い訳だとしたら、
それに引っかかるほうがどうかしている。
おっさんはかつて若者だったんだから、
まぶしいくらいの若者にも感情移入できるし、
むしろ今の若者としてのザボーガーが見たいはずだ。
若者がこの映画を見ることがないんだから、
さわやかな若者が万々モテて大活躍するだけで、
オッサン向けとしては十分なはずだし。
というわけで、
意味のない30年後、というのは意味がない。
意味のあるような時間飛ばしができたら、
そのストーリーは化けるぞ。
「この時を待っていたのだ」
と、悪役ないし主人公側に言わせてみよう。
それでぞくっとするようなものならば、
その30年飛ばしはテーマに関わってくるだろうね。
まあもちろん、なぜ待っていたのかとか、そういうことを創作しないといけないのだが。
30年飛ばす、
というのはテクニックに過ぎない。
5年でも10年でもいいよ。
100年飛ばしてもかまわない。
SFが生まれたころ、
30年飛ばすテクニックを、100年や1万年に拡張する実験がよく行われた。
ウラシマ効果を使えばそれが簡単にできたからね。
それを利用したのが「猿の惑星」だろう。
ただの民族争いに巻き込まれた話が、
急にテーマに関わってくる飛ばし落ちは、とてもうまくできている。
こういう風なものは、飛ばすことでしか生まれない。
その時を経てどうなるのか、
という「時間」を描くことは、
ストーリーにしか出来ない行為だ。
たとえばあなたのいた部活に、30年後戻るとしよう。
どうなっているだろうか。
トップガンマーヴェリックは、ほとんどそういうアイデアから始まっただろうね。
「だけど今じゃない」というのは、
それを象徴するセリフになっているよね。
2022年09月28日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック