2022年09月28日

「30年後」で二部制にする

苦しくなったら思い出して試してみるといい。


あるストーリーを書いているとする。
決着をつけようにも、どういうルートでそこに至ればいいのかわからない。
あるいはどういう展開があるべきかについてもわからない。
しかし発端はとても面白く、
ただそれが勢いがなくなることが分かってしまい、
結末まで走るだけの燃料を積んでいない。
こんな風になることは、
シナリオを書いていればしょっちゅう出会うことだ。

これでも必死でいろいろ考えて、
ラストまで走ると、
その苦しみが名作を連れてくることがあるのだが、
毎回そのあたりを引くことは出来ないので、
このテクニックを思い出すとよい。

ある強力な引きだけつくっておいて、
「30年後」と、時間を飛ばしてしまうのである。

30年もたてば世界は全く変わってしまう。
勢いのあったものは廃れ、
まったく違うものが台頭して、
若かった者は壮年となり、
少年たちは世界の中心の大人になっている。
老いた者はもうこの世にいなかったり、
まだ生きている者もいるだろう。
支配的だった構造は変化して、
あるものはもうなかったり、
まったく違う原理が支配していることになるだろう。

30年前はテレビが中心だったが、
今はネットが中心みたいなことだ。
東京オリンピックの失敗や、コロナなんて30年前はなかった。
そういう感覚の違い。

想像力を働かせれば、
まったく違う世界へ、
登場人物を飛ばすことが出来るだろう。
タイムスリップではない。
実際の時を生きると、人は変わってしまう。

それでも変わらないものがある。
それが、ストーリーで重要なことだろう。
あの時の気持を持っているとか、
あの時の約束を果たそうとしているとか。
30年前のあの伏線を、
今どうしようとしているのかとかが、
テーマになってくるわけだ。
そして30年前の引きが、
今復活して、「あの時の続き」がはじまり、
決着をつけようとなってくるわけだ。

ただ普通に決着に持ち込むよりも、
こうして時を経たほうが面白くなる場合がある。
それはつまり、
そのままだとテーマ性がたりないが、
時を経た決着だと、
テーマ性が付加される可能性があるということ。

それほどのものがあるかは、ストーリー次第だけど。
でも「子供のころを大人になってても覚えていて、
それを実現するときがやってきた」
なんてのはとても素敵なテーマになるときがあるよね。
そういうことだ。

なかなか「間で時を飛ばす」というのは、
やったことがないと思いつかないかも知れない。
でも一回それを経験しておくと、
一手として使えるものになるから、
試しに一回書いてみるといいよ、
ということ。

ただ、テクニックとして飛ばすだけだと、
「ただ飛ばしてごまかしただけ」になるから、
30年時が飛んだなりの、
テーマ性が必要になる。
「なるほど、それを描くために飛ばしたのだな」
ということがわかると、
それがテーマになってくるわけだ。
人間の変化や、変化しないことが、
テーマに関わってくるだろう。
それをどう描くかはストーリー次第。
ただ、飛ばしたことで、
それまでなかったテーマに、気づくこともあるかもしれない。
時を経た試練が、テーマをうまく醸成するかもれしない。ウィスキーのようにだ。
まあただ腐ったり、消失してしまうこともあるかもだが。


これで思い出すのが、
井口昇版の「電人ザボーガー」だ。
二部制は失敗している。何故か、考えよう。

胸を熱くさせる青年編と、
その30年後だったかは定かではないが壮年編の、
二部構成だ。

僕は若者だけで突っ走ったほうがおもしろかったと思っている。
壮年編は「大門豊がオッサンになってしまっている」
というビジュアル上の面白さだけで終っててしまい、
存在意義が不明になっているのが、
失敗の原因だと思う。
すでに肉体的に戦えないから、
別の手段で戦うとか、
ザボーガーや機械は歳をとらないとか、
人間の命と機械との対比とかがテーマに絡んでくれば、
何か意味があったのかもしれないのに。
つまり、「二部制にどういう意味があるのか」
ができていれば、
それはストーリーとして意味があり、
興奮するというわけだ。

大河もので昔よくあったパターンは、
第二次大戦の因縁が、
戦後でもまだ続いていて、
ナチスで悪いことをしまくったやつが、
戦争が終わって断罪されずに、
逃亡して平和な人間のふりをしていて、
人間らしさを取り戻した30年後に、
ナチスに殺された家族の生き残りに知られ、
殺される、
というようなやつだ。
戦争というものと、戦後の平和というふたつの時代を経て、
因縁を昇華するパターンだね。
30年というのがそれくらい興味深く作用すると、
面白くなると思う。

ザボーガーは30年飛ばす意味がまったくなかったため、
なんで二部制になったんだっけ、
がわからない。
せっかく青年編は勢いがあって面白かったのだから、
これでやったらええやんけ、と思ってしまう。
壮年編があることで企画会議が通り、
製作にこぎつけたとしたら、
その企画を通したやつは、ぼんくらでシナリオを見る目がない。
壮年編は企画としては面白いが、
それがストーリーやテーマにとって何が意味があるのかね?
という問いを発生させられない時点で、
ストーリーというものを理解していないということが分かってしまう。
「見ている人はそういう年齢の観客だから、
感情移入しやすい」という言い訳だとしたら、
それに引っかかるほうがどうかしている。
おっさんはかつて若者だったんだから、
まぶしいくらいの若者にも感情移入できるし、
むしろ今の若者としてのザボーガーが見たいはずだ。
若者がこの映画を見ることがないんだから、
さわやかな若者が万々モテて大活躍するだけで、
オッサン向けとしては十分なはずだし。

というわけで、
意味のない30年後、というのは意味がない。

意味のあるような時間飛ばしができたら、
そのストーリーは化けるぞ。


「この時を待っていたのだ」
と、悪役ないし主人公側に言わせてみよう。
それでぞくっとするようなものならば、
その30年飛ばしはテーマに関わってくるだろうね。

まあもちろん、なぜ待っていたのかとか、そういうことを創作しないといけないのだが。


30年飛ばす、
というのはテクニックに過ぎない。
5年でも10年でもいいよ。
100年飛ばしてもかまわない。
SFが生まれたころ、
30年飛ばすテクニックを、100年や1万年に拡張する実験がよく行われた。
ウラシマ効果を使えばそれが簡単にできたからね。
それを利用したのが「猿の惑星」だろう。
ただの民族争いに巻き込まれた話が、
急にテーマに関わってくる飛ばし落ちは、とてもうまくできている。

こういう風なものは、飛ばすことでしか生まれない。

その時を経てどうなるのか、
という「時間」を描くことは、
ストーリーにしか出来ない行為だ。

たとえばあなたのいた部活に、30年後戻るとしよう。
どうなっているだろうか。
トップガンマーヴェリックは、ほとんどそういうアイデアから始まっただろうね。
「だけど今じゃない」というのは、
それを象徴するセリフになっているよね。
posted by おおおかとしひこ at 01:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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