2022年09月29日

物語とは欠損である

仮に出生に恵まれ、人生苦労もせず、
人格者として大成して、人生の全ての勝負に勝った、
パーフェクトな人生を考えよう。

これは物語にならない。
つまり物語の原動力は、欠損であると僕は考えている。


全部勝利する人生というのは、
あんまり想像できない。
そんなものだったらすべての人を下に見そうだけど、
それでも歪まずに、
まっとうな世界観を持っている人格者では、たぶん物語にならない。
パーフェクトでは、物語にならない。
完成は物語の敵だ。


物語が始まるのは、
欠損があるときである。

貧乏だからそこから脱出したい、
モテないからモテたい、
足りない事情があるからこそ裏切る、
侵略されて奪われたから取り返す、
失敗は元に戻らないから再び失敗しないようにする、
なんでも構わない。

足りないのだ。
だから埋めようとするのだ。
足りないものがそのまま埋まるだけが実は目的ではない。

埋まったものが、それまで足りなかったものを、
完全に埋めきるまで得るようにすると思う。
つまり、足りない10に対して、
11とか12とか20とか得られない限り、
物語は終わらないような気がする。

その、「足りないから得ようとすること」こそが、
人生の、物語の目的ではないかと思う。


あるいは、
人に比べて何か足りないから、
劣等感を持ち、それまで屈折して生きてきたはずだ。
人に比べて何か足りないから、
別の何かを伸ばして、
補ってきたはずだ。

そのような、「足りないことから生まれた何か」が、
足りない何かを得ようとする過程で、
役に立つことがある。
つまり、
「足りなかったからこそ、得られた」
という物語が生まれる可能性がある。


もちろん、
それをうまくやらないと、リアリティが足らないよね。
「モテなかったからこそ、最終的にモテたのだ」
というあらすじは誰でも考えられるが、
じゃあそのディテールはどういうことやねん、
を詰めない限り、これはストーリーとして成立しないだろう。

成立するには、
「なるほど、この欠損があればこそ、
人生が最終的に豊かになったぞ」
という展開、説得力が必要だ。

設定は誰でも考えられる。
それを実際に具体にディテール化するのは、脚本家だ。
それはたぶん人生経験の厚みが必要かもしれない。
(人生経験がなくても、
観察だけで「人生とはこのようなものだ」が
書けないというわけではないが)


みんな足りない。
でも足りないものを足りないまま放置している人は、
一生足りないままだろう。

物語とは、そうした凡百の人々ではなく、
足りないゆえに、何かを得られた、
特別な人の話を語るものである。

だから価値があり、人をして納得さしめるのである。
説得力があるようにつくれるかは、
あなたの筆力しだいだ。


どういう欠損か。
その欠損ゆえに、その人はどう生きてきたか。
欠損の代わりに、何かを伸ばしただろうか。
他の登場人物は。別の人は。
敵でも味方でも第三者でもよい。
どういう欠損か。

異なる欠損をつくろう。
足りない人と足りない人が、
出会う。

一人と一人でもいいし、
複数の「足りない人」が出会っても良い。

そこでどういう化学反応があり、
最終的にどのようになるかが、
物語という架空の人生である。


そしてそれにどのような意味があるかは、
どのような欠損が、
どのようなもので埋まったかで、
決まるのではないだろうか。

足りないゆえに敗北するか、
足りないゆえに勝利するかは、ストーリー次第だろうが。
posted by おおおかとしひこ at 00:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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