仮に出生に恵まれ、人生苦労もせず、
人格者として大成して、人生の全ての勝負に勝った、
パーフェクトな人生を考えよう。
これは物語にならない。
つまり物語の原動力は、欠損であると僕は考えている。
全部勝利する人生というのは、
あんまり想像できない。
そんなものだったらすべての人を下に見そうだけど、
それでも歪まずに、
まっとうな世界観を持っている人格者では、たぶん物語にならない。
パーフェクトでは、物語にならない。
完成は物語の敵だ。
物語が始まるのは、
欠損があるときである。
貧乏だからそこから脱出したい、
モテないからモテたい、
足りない事情があるからこそ裏切る、
侵略されて奪われたから取り返す、
失敗は元に戻らないから再び失敗しないようにする、
なんでも構わない。
足りないのだ。
だから埋めようとするのだ。
足りないものがそのまま埋まるだけが実は目的ではない。
埋まったものが、それまで足りなかったものを、
完全に埋めきるまで得るようにすると思う。
つまり、足りない10に対して、
11とか12とか20とか得られない限り、
物語は終わらないような気がする。
その、「足りないから得ようとすること」こそが、
人生の、物語の目的ではないかと思う。
あるいは、
人に比べて何か足りないから、
劣等感を持ち、それまで屈折して生きてきたはずだ。
人に比べて何か足りないから、
別の何かを伸ばして、
補ってきたはずだ。
そのような、「足りないことから生まれた何か」が、
足りない何かを得ようとする過程で、
役に立つことがある。
つまり、
「足りなかったからこそ、得られた」
という物語が生まれる可能性がある。
もちろん、
それをうまくやらないと、リアリティが足らないよね。
「モテなかったからこそ、最終的にモテたのだ」
というあらすじは誰でも考えられるが、
じゃあそのディテールはどういうことやねん、
を詰めない限り、これはストーリーとして成立しないだろう。
成立するには、
「なるほど、この欠損があればこそ、
人生が最終的に豊かになったぞ」
という展開、説得力が必要だ。
設定は誰でも考えられる。
それを実際に具体にディテール化するのは、脚本家だ。
それはたぶん人生経験の厚みが必要かもしれない。
(人生経験がなくても、
観察だけで「人生とはこのようなものだ」が
書けないというわけではないが)
みんな足りない。
でも足りないものを足りないまま放置している人は、
一生足りないままだろう。
物語とは、そうした凡百の人々ではなく、
足りないゆえに、何かを得られた、
特別な人の話を語るものである。
だから価値があり、人をして納得さしめるのである。
説得力があるようにつくれるかは、
あなたの筆力しだいだ。
どういう欠損か。
その欠損ゆえに、その人はどう生きてきたか。
欠損の代わりに、何かを伸ばしただろうか。
他の登場人物は。別の人は。
敵でも味方でも第三者でもよい。
どういう欠損か。
異なる欠損をつくろう。
足りない人と足りない人が、
出会う。
一人と一人でもいいし、
複数の「足りない人」が出会っても良い。
そこでどういう化学反応があり、
最終的にどのようになるかが、
物語という架空の人生である。
そしてそれにどのような意味があるかは、
どのような欠損が、
どのようなもので埋まったかで、
決まるのではないだろうか。
足りないゆえに敗北するか、
足りないゆえに勝利するかは、ストーリー次第だろうが。
2022年09月29日
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