たとえばサーカスの綱渡りの人は、
いきなりあの高さと距離を初手でやるわけではない。
地上5センチの綱を渡る練習を十分してから、
どんどんと釣り上げていく。
つまり、危険に徐々に慣らしていった結果があの芸だ。
我々は一番危険な状態に出くわすから面食らうのだが、
彼らにとっては、最初の危険からの延長の、
長い長い危険の一部である。
つまり何が言いたいかというと、
人は危険に慣れる。
物語とは、
危険な問題が起こり、それに対処することである。
いきなり危険なことが起こることは滅多にないから、
最初は小さな危険から始まることが多い。
ん?なんだろ、やばいな対処しなきゃ、
くらいのやつがいつのまにか膨れ上がり、
やべえぞこれ、みたいになってゆく。
で、本格的に危険だと分かったとき、
対処を始めて、解決する必要に迫られるわけだ。
ここで本題。
人は危険に慣れる。
これには二つある。
まず主人公が慣れてしまうことがある。
「やばい対処しなきゃ」に慣れてしまうということだ。
あと三回遅刻したら退学、という危険だとしても、
それに慣れてしまえば、「あと2回はセーフ」
みたいな、危機感の管理になってしまうということだ。
それは、人間はずっとアラームが鳴っていることに耐えられないからだと思う。
痛い辛いばかりだと死んじゃうから、
どこかでそれを切り離して、
別の考え方に切り替わるように出来てるんじゃないか。
辛い戦争のときに、
急に歌って踊る人が現れるのに似ている。
ずっと危険危険危険だと、慣れてしまい、
平常心で適応するようになってしまう。
もうひとつは観客だ。
観客も、「危険とともにいる主人公」に慣れてしまう。
仮に主人公が「余命三日」と言われたとしても、
最初はうわあああと思ってアラームが鳴ってても、
それに慣れ、冷静に対処したり、
あまつさえ笑って暮らせるようになるということ。
たとえば冒頭で地球侵略を開始した宇宙人が出てきて、
滅亡の危険が迫っていたとしても、
30分も経てば、「滅亡に対して戦っている状態」
に慣れてしまうということだ。
つまり。
危険は増さなければならない。
地上5センチの綱は、いずれ30センチ、50センチ、
1メートルにならなければならない。
そしてそのうち2メートル、10メートルにならなければならない、
ということである。
それは、
「慣れてきて油断したタイミング」がいいだろう。
やべえやべえと思ってたら、
もっとやばくなった、
が理想だと思う。
シナリオの敵の一つは中弛みであるが、
この危険の増し方が緩いから起こる、
という見方はできないだろうか。
相変わらず危険の量は変わってなくても、
慣れにより、危険だと感じなくなっている
(登場人物も、観客も)可能性を検討しよう。
これはなかなか気づけない。
作中の危険は変化してないからだ。
変化してるのは受け取る側であり、
受け取る側は時間変化で適応してしまってるんだね。
その要素は見落としがちだ。
第一ターニングポイントでセンタークエスチョンを提出したとしても、
そこから10分15分もすれば、
そのヤバさには慣れてしまう。
「あれ?センタークエスチョンには、
さっき気づいてなかった、
もっとヤバいことがあるのでは?」
と言う風にならないと、
人は慣れてしまう。
大量の火薬庫があり、
最初は風が吹いてもビビっていたのに、
そのうちその前に座ってタバコに火をつけるくらいやってしまう、
ということである。
適応、油断、慣れ。
どんな危険でも人はこうなるのだ。
ウクライナロシア戦争だって、
最初の二週間は緊張の連続だったのに、
なんだか慣れてきたではないか。
そういうことだ。
ロシアが総動員法を発令して、
危険は曲がり角を曲がった。
ダラダラグズグズやるのではなく、
いずれゴール(破滅?)が見えてくるだろう。
もしこれが映画なら、
確実に中弛みしてたところだ。
つまり、
冒頭の「ヤバい」は、
どんどんヤバさを増していく必要がある。
エスカレートである。
逆に、エスカレートしない物語はだれる。
だれたくなかったらエスカレートするべき。
すなわち、
ストーリーというのは、
エスカレートから逃げられない。
どのようなエスカレートコースを立ててある?
それがある種の骨格だ。
2022年10月01日
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