ものごとの解決をするための二つの方法論。
対症療法はその場しのぎだ。
しのげるかもしれないが、大抵はあとから対症療法の対症療法が必要になる。
小さな嘘をつき重ねると、大抵は大変な事態になってゆく。
根治療法は時間がかかり、
そしてコストもかかり、大変だけど、
どうせやるなら、
シンプルですっと軸が通るような、
根本的な大改造が必要だろう。
そして多くの場合、
対症療法は問題を過小評価し、
責任が最後までおっかぶさってくることを考えていない、
無責任なやり方ともいえる。
「夏休みの宿題を9/1にやってないときの言い訳」
と僕はいつも例に出す。
やってないことをバレたくないために、
家に忘れたとか犬にぐちゃぐちゃにされたとか、
適当なその場しのぎをやることが、
対症療法である。
根治療法は、宿題を泣きながらやることだね。
泣きながらやったって、身につかないんだけどね。
東京都が新築一戸建てに太陽光パネルを義務付けたという。
要は電力が逼迫するから、各家庭で対症療法せよということだ。
一見合理的な案に見えるが、
これを計画した人や決定した人は、
「太陽光パネルはすぐ壊れるし、廃棄が難しい」
ことをわかっていないと思う。
分かっていたとしても、後のことは後で考えようとか、
任期が終わってるし、とやり逃げしようとしてる可能性がある。
つまり、目の前の逼迫が一見解決したようなことになれば、
なんでもいいという考え方だ。
これは批判するべきだし、小池百合子には二度と投票せず、
批判票を次の泡沫候補に入れることになるだろう。
問題の対処には、
つまり二種類ある。
根本から問題を解決する、根治療法。
問題が「いまなくなればいい」という、対症療法。
虫歯なのに歯医者に行かず正露丸で我慢するのが対症療法。
泣いてる子に飴をあげてとりあえずニコニコさせるのが対症療法。
あるいは、
女の車のライトがつかないのに、
いますぐ女のところへ行って抱きしめてあげるのが対症療法。
(この有名なコピペの興味深いところは、
男は「ライトがつかない」ことが問題の根本だと思ってて、
女は「助けて」が問題の根本だと思っていることだ)
この、
対症療法と根治療法というふたつの問題の対処の仕方は、
つまりは物語に使えるということだ。
その典型例のひとつがアリとキリギリスだろう。
現代のアリとキリギリスの例は、
対症療法に対症療法を重ねた、
東京オリンピックの開会式で見ることができる。
みずほの銀行システムも、
そのツギハギぶりがそうらしく、
何度エンジニアたちが、
一ヶ月あれば根本的にシステムを一から作り直せるというのだが、
なぜかそれをしないそうな。
おそらくみずほの決定者たちは、
小池百合子と同様、
「私の任期中に問題が起こらなければ良い」
と考えているに違いない。
物事は、カオスに巻き込まれる。
対症療法は、カオスを増幅させる傾向にある。
対症療法の対症療法が必要で、
その対症療法に対症療法が必要になってくる。
かゆみ止めの副作用に「かゆみ」があったり、
睡眠薬の副作用に「悪夢」があったりするのは、
まさにその皮肉だと思う。
結局、一からその問題を察知して、
根本的な立て直しをした人だけが、
最終的な正解を引く。
ていうか、正解の引き方ってそれしかないんだよな。
こうした人生の真実を、うまく物語に取り込めて、
アリとキリギリス、ウサギとカメみたいな話にせずに、
新しいパラダイムで語れると、
新しいパターンの物語を発明できると思う。
つまりヒントはどこにでもあるわけだね。
2022年09月16日
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