「トップガンマーヴェリック」のタイピング芝居は、
とてもよかった。(そのあとの前哨戦としての使われ方だけど)
映画の中では「人が書いた文字」そのものが、
とても大切な意味を持つことがあるよね。
それは、ただの文字じゃなくて、芝居だからだね。
芝居とはつまり、
「ただの動作」「ただの行為」ではない。
「ただの目線」「ただの表情」でもない。
芝居とは目的のことだ。
タイプされる文字や、手書きで書かれた文字そのものは、
その人の思いや目的の、代わりである。
つまり、
A(その人の思いや目的)を、
B(文字)で表しているわけだ。
違うもので表現しているから、
Bを見ただけで、Aという思いを思い出せるわけだ
(象徴)。
最近やったお仕事で、
佐藤詩織「まっしろな世界へ。」PVの編集仕事をやった。
(本人がロンドン留学中だったため、
イギリス在住カメラマンが撮影、
それを東京の僕が編集する、という変わったやり方)
本人作詞がウリというのもあり、
「本人がタイプする動画がよいのでは」
と僕がアイデアを出した。
つまり、手書きの手紙と同じ効果になるわけだと。
結果は、彼女のダンスといい塩梅に融合した、
彼女の世界になっていると思う。
(ぶっちゃけ動画素材がユルユルだったので、
動くものを二つにして視線を分散させる意図もあるが)
効果のほどは以下を見られたい。
https://m.youtube.com/watch?v=oW-9nUHhWxE
動くものBはなんでも芝居になる。
そこに意図Aがあり、BはAを表現しているのだ、
と分かれば、観客はBを見守り、
そこからAを読み取ろうとする。
たとえば車がバックしたり転回しようとしているとき、
我々は運転手は見えていないが、
運転手の意図を読み取ろうとして、
タイヤの向きやウィンカーを観察することになるよね。
「ああ、ということは駐車場から出て、
反対側に行きたいんだな」とか。
それと同じ。
この場合のAは、
平手の脱退で事実上解散した欅坂46から独立し、
元々美大系アイドル売りだった彼女が、
ロンドン美大留学を経て、
また新たな人生のステージに立つ決意みたいな、
彼女自身の今の素直な気持ち、
である。
それをダンスというBで表現するか、
文字タイプというBで表現するか、
という違いに過ぎない。
(流石にダンスだけでAを読み取れ、
は無茶があると思ったので、
タイピングを提案したんだよね)
理想は彼女自身の手書き文字が、
するすると画面に書かれることだけど、
それはアニメーションを作らないといけないので、
その手間は流石に断った。
以下ネタバラシというかメイキングなのだが、
実際には漢字変換も含むと、
本人のタイピングでは追いつかないため、
実はタイピングは僕によるものだ。
(もちろん一発撮りは難しいので、
何回かやり直している。
あと漢字変換は覚えさせて、一発で候補が出るように事前調整してある。
当然、薙刀式によるタイピングです)
見た人は俺が打ってようが誰が打ってようが、
それを言われない限りは、
「彼女自身の言葉を、彼女が歌い、綴っている」
ように見えるわけだ。
この「ように見える」こそが、
お芝居の真髄であるわけだね。
BからAを見ること。
BはAを「表している」と思うこと。
そのように見せて、そのように見えれば、
お芝居は完成する。
Aをリアルに見せるとか、
生の何かとかは、お芝居と関係ないんだよ。
実際、「リアルなA」というBの芝居をしてる可能性もあるけどね。
2022年09月18日
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