2022年09月24日

スチルとムービーの違い

これらがどう違うのかは、よく議論されるかもしれない。

今回は、
「スチルでよいとされるものは、
動いていないのに動きを想像できるもの」
「ムービーでよいとされるものは、
動いているのに、不変の動かないものを想像できるもの」
という対比で議論してみよう。


ちなみに画素数はだいぶ違う。
スチルは数万×数万のピクセルで、
動画は1960×1080×秒24か30だ。
(4KならXYT方向に2倍ずつ、つまり8倍。
ちなみにYouYubeならもっと落ちるし、
そもそもテレビはハーフHD、1280×720だったりする。
スマホは機種によるが、その1/4以下だろう)

スペックの違いをどれだけ論じても関係はないと思う。
紙焼きの写真とスクリーンと、アナログで対比しても関係ないと思う。
もっと本質的な話をしようとしている。

いい写真、いいムービーには、
本質的に真逆の性質があるという話をしようか。


いい写真とはなんだろう。
僕は、
止まっているものにも関わらず、
動きを想像できるものではないかと思う。
躍動感あふれる写真はもちろんそうだし、
あるいは、
クラウチングスタートの構えのような、
静から動へ移る瞬間の写真もそうだと思う。
あるいは本来動かないものだけど、
たとえば廃虚や古い建物の写真のような、
それが過ごした時間という動きを感じられるような写真もいい写真だと思う。
季節の一瞬のきらめきや人間の間抜けな、素敵な写真も同様だと思う。
そこに時間が流れていることが想像できること。
それが停まっている写真がいい写真になる瞬間だと思うんだよね。

構図とか、光線とか、レンズとか、色使いとかは、
道具でしかないと思うんだよ。
へたくそな調理器家具でつくっても、
うまい料理はうまい。
そのうまさの本質とは何か、
という話をしようとしている。

逆に、技術とは、その本質の解像度を上げる道具でしかないと思っている。
(だからスマホ写真や写ルンですでも、
いい写真は撮れるのだ)


さて、ではいいムービーとは何だろう。
僕は、写真の逆で理解するといいと思う。

すなわち、
写真が、
動いていないもので、動いているものを想像させることがいいとしたら、
ムービーは、
動いているもので、動いてないものを想像させることが、
いいんではないか、
ということ。

つまり、
動くこと、
行動や感情や状況や、芝居やカメラワークなどによって、
どんどん動いていくものが表現されるのだが、
本質的にはテーマ、
つまり、不変の何かをそれで表現されている、
というものが最上なのでは、
ということだ。

逆を考えよう。
へぼい写真とは?
ぶれたりピンが甘かったりの、
止めなければいけないのに、動いてしまっている写真だろう。
シャッタースピード、手振れ、感度などによって変わるが、
これの選択がへたくそならば、
時を止めた写真にはならないだろうね。
(もちろん、他が全部止まっているのに、
一人だけぶれていることで表現になっているなど、
静止とぶれを表現で使うことはやぶさかではない。
それは砂糖に入れた塩のような役割である)


ではへぼいムービーとは?
ずっと停止しているものだと思う。

動かない景色が延々続いたり、
ただ黙っている人物が映し出されたり、
登場人物が何も動かなかったり、
状況がずっと変わらなかったり、
というものだろう。
動くものを見ようとしているときに、
動かないものは退屈なわけだ。
(もちろん、動きまくるものの中に一瞬静止しているものがあるとハッとするので、
砂糖の中の塩のような役割で静止を入れることは、
やぶさかではない)

物語とは事件、展開、結末で描かれるが、
終ったあと、何が残るか、がテーマだ。
それは人生の法則であったり、
世界の法則であったりする。
僕は命題の形Pで書ける(AはBである、というような形式)と主張しているが、
つまりそれはある時間を経ても変わらない、
何かの主張や法則のようなものであると。


つまり、
写真は、
静止したものをモチーフ(道具)として、
動いている時をテーマとする(本質)。
ムービーは、
動いているものをモチーフ(道具)として、
動かない不変の原則をテーマとする(本質)。

描こうとしているものが、
真逆なのではないか?
という説だ。


僕は昔からグラフィックチームとそりが合わない。
考えていることがまったくわからず、
こっちのやっていることを理解されているとも思えない。
外国人のムービーチームのほうがよっぽど意思疎通ができて、
いつもこれはなんなんだろうと思っている。
それは、モチーフという道具の差だと思っていたのだが、
「そもそもやろうとしている目的が違うのでは?」
ということに気づいたので、
今回議論してみたわけだ。

写真は永遠に時を止める、
なんて言い方もするが、
時を止めるのが目的じゃないんだよね。
時を止めることで、
そこに流れている(た)時間を、
見るためにあるんだと思う。

ムービーは時を止めるとは言わないが、
表現されたテーマや人間の本質は、
時を超えることがある。

つまり、写真は時を止めることで、
時を見ようとする。
ムービーは、時を記録することで、
時から逃れようとしている。

手段と目的が、
まったく真逆なんじゃない?
と思ったので、こうして整理してみた。


反論は認める。
posted by おおおかとしひこ at 14:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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