リライトのTIPSみたいなこと。
リライトしているときに、
何回書き直しても満足しないパートがある。
一回二回じゃない、五回六回、十回書き直しても、
まだうまく書けた感覚のないもので、
要求するものに到達しなくて、
満足しないパートがまれによくある。
こういうとき、
そこだけを直すのはやめて、
最初の項に戻して(最終稿でもいいが)、
別の所を直すといいよ、
という話。
ツボでいえば、
遠くの所に刺激を入れて、
患部に別の血液を流す、
みたいなイメージだ。
じゃあそのツボはどこにあるんだろう。
そのパートへの伏線になっている所、
すべてが候補である。
伏線といっても、どんでん返しのような派手なやつだけでなくて、
そのパートの前提になっていること、
くらいに考えておくとよい。
因果のうち、因になっている所だね。
仲直りする、というパートを書き直したいならば、
喧嘩のシーンがそれにあたるわけだ。
でも喧嘩に至るその前もその因だよね。
結局、どこがそこに至るのか、
大体全部の線をチェックしないといけなくなるだろう。
で、それ以前の、設定から変えたほうがいいかもしれない、
なんてことに気づくかもしれない。
あるいは、
因果でいうと、果のほうからやる手だってある。
そのパートはいまいちでも、
そこに伏線を仕込むことで、
そのパートからの結果がよくなり、
名シーンであるべきはそのあとのシーンであったのだ、
ということが分かることだってよくあるよ。
あるいは、そのストーリーラインでないところを直すと、
流れがよくなることもある。
喧嘩と仲直りのストーリーラインを直そうとしているときに、
そことは関係ない、友人のサブプロットを直すと、
よくなることがあることもある。
それは順番が前後したりして、
観客の意識が変更になるからだろう。
こうしたときは、たいてい直したあとの原稿ではなくて、
初稿の素直な状態で書いたもののほうが、
合うことが多い。
問題はそのパイプラインではなくて、
別のパイプラインが詰まっていたことによる、
ということだって全然あるわけだ。
パズルでも似たようなことが起こるよね。
ここが原因だと思ってたのに、
まったく関係ないところをいじったら、
本道がとてもうまく行った、
みたいなこと。
逆に、うまくできたパズルは、
問題の箇所にわざと注目させるようにして、
隠れたところに解決のカギがあるようなものだと思うよ。
「そこかあ、きづかなかった!」
という楽しみを提供しているわけだからね。
パズルは解くことが目的だけど、
脚本上の問題はそうじゃない。
目的に対してノイズになっていることが問題なのだ。
でも、共通する構造があるように、
僕からは見えている。
それはおそらく、
脚本はパズル的な本質を持っているからだと思う。
よくできたパズルが、
何個も別解をもっていたり、
その中でも美しい解があるように、
脚本というパズルでも、
何個も別解があるし、
その中でも美しい解があるとは思う。
その中でも、
感動や笑いなど、感情がもっとも揺れ動くのが、
正解のルートだろうね。
ということで、
そこだけが問題なのか?
ということをリライトでは問うと良い。
そこは問題じゃなくて、
別の問題がそこで躓いているから、
躓きはそこだと誤解しているのかもしれないよ、
ということだ。
よくよく見れば、観客が誤解しているだけ、
ということだってある。
じゃあ、事前にその誤解を解くシーンを入れるだけで、
もとの問題のシーンは何も問題なくするっと行くかもしれないわけだからね。
それが、どのように問題になっているのか、
特定しよう。
まずは患部の特定のようなものだ。
そこを直すのは単なる外科手術だ。
それで直したことにはなるが、対症療法かもしれない。
またぶり返すことがある。
そこに何度もメスを入れてぐちゃぐちゃになるのは、
あまり推奨の方法ではない。
東洋医学的に、
原因を根本から見直して、
まったく離れた所から、遠投して直すことだ。
全く離れることはとても良いことで、
パズル全体を見渡すことでもある。
そうしたときに、
「ここは触っていないぞ」というポイントに気づくはずだ。
俯瞰というのは、そうした見方のことである。
逆にいうと、
同じところでぐるぐる直して悩んでいるのは、
俯瞰的になっていない証拠だ。
視野が狭くなっているのでは?って気づき、
落ち着いて見てみることだ。
深呼吸したり、物理的に紙から遠ざかって見たり、
(地面にばらまいて2階の窓から見てもいいぞ)
たっぷり寝るのも俯瞰的になれるやり方だ。
2022年10月13日
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