2022年10月14日

スポーツ映画は難しい

といつも思う。
それは、高度なスポーツ撮影が必要だからか?
あるいは、観客のエキストラを入れることが大変だからか?

それもあるけど、
もっと根本的なものが、シナリオにある。
シンキングタイム。


それは、動機だと思う。

なぜその試合をするのか?
という主人公の動機だ。


それまでのすべての試合は、
クライマックスのラストの試合のためだから良いとして、
ではなぜその最後の試合に勝ちたいのか?
ということなんだよね。

チャンピオンになりたいから、
賞金が欲しいから、
有名になりたいから、
ではやや弱いと思う。

だってみんなそうだろ、と思うからだ。
そしてその試合自体は、年一回のトーナメントだろうが、
オリンピックの特別な場であろうが、
そんなにはかわらない。

他の試合と同じ、ひとつの試合でしかないからね。


前人未到の記録がかかったすごい試合ならまだある?
所詮フィクションだからね。
実在の試合をモデルにした話ならまだあるが、
フィクションとは常に、
「それほんとじゃないんでしょ?」がまとわりつく。

つまりその試合の意味(意義)だ。

それに勝つことはどういう意味があるのか?なんだよね。


スポーツ試合の単なる勝利に、意味自体はない。
意味を見出すのは人間の側だ。

つまり、
「これ勝つとどうなるか、負けるとどうなるかが、
人生とか関わってくる」
がないと、ストーリーにならない、
ということなのだ。


たとえばなんでもいいけど、
この試合に勝たないと人質の両親が殺される、
この試合に勝って告白、
ホームランを打てば手術を受けるよ、
勝てないにしても最後まで立ってれば、
俺が俺である証明ができる、
などなどだ。

つまり、ドラマは人間の側にあって、
試合の中にはないんだよね。

だから僕はよく、
クライマックスではじゃんけんでも構わない、
といっている。

勝てばどうなるか、負ければどうなるかわかってて、
これをやればその結果が出てしまうことで、
主人公に感情移入してて、
これが勝てばストーリーの決着が全てつくことが出来てたら、
スポーツの試合でなくてもいいと思うんだよね。

そしてそれは、
主人公だけでなくて、
敵、ライバル、友人などに、
それぞれの事情があっていいんだよ。

この中で一人しか勝てない状況で、
決着がついた時に、
なんと世界は残酷か、
あるいは世界はなんとよく出来てるのか、
という満足感は、
別にスポーツである必然性がないんだよね。


だから、
スポーツ映画は難しい。

それでなければならない理由を、
どう創作するか?が、
難しいわけだ。

観客のエキストラが大変ならば、
無観客試合という手だってある。

じゃあ、スポーツによる決着でなくて、
じゃんけんや殴り合いでもいいよね、
ってなっちゃうんだよね。


実在の試合以外で、
どう動機を仕込むのか?
がとても難しいんだよね。
スポーツと人生をどう交錯させるか、
という作家の力量が問われるジャンルだと思う。

そうそう、以前某マイナースポーツの話を書きたいと思ったのだが、
「なんでプレイヤーそれぞれが、
それをわざわざやるのか?」に関する、
妥当な答えが人数分考えられなかったんだよね。
動機は人によって異なるべきで、
それは人生の様相に似ている。
posted by おおおかとしひこ at 00:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック