といつも思う。
それは、高度なスポーツ撮影が必要だからか?
あるいは、観客のエキストラを入れることが大変だからか?
それもあるけど、
もっと根本的なものが、シナリオにある。
シンキングタイム。
それは、動機だと思う。
なぜその試合をするのか?
という主人公の動機だ。
それまでのすべての試合は、
クライマックスのラストの試合のためだから良いとして、
ではなぜその最後の試合に勝ちたいのか?
ということなんだよね。
チャンピオンになりたいから、
賞金が欲しいから、
有名になりたいから、
ではやや弱いと思う。
だってみんなそうだろ、と思うからだ。
そしてその試合自体は、年一回のトーナメントだろうが、
オリンピックの特別な場であろうが、
そんなにはかわらない。
他の試合と同じ、ひとつの試合でしかないからね。
前人未到の記録がかかったすごい試合ならまだある?
所詮フィクションだからね。
実在の試合をモデルにした話ならまだあるが、
フィクションとは常に、
「それほんとじゃないんでしょ?」がまとわりつく。
つまりその試合の意味(意義)だ。
それに勝つことはどういう意味があるのか?なんだよね。
スポーツ試合の単なる勝利に、意味自体はない。
意味を見出すのは人間の側だ。
つまり、
「これ勝つとどうなるか、負けるとどうなるかが、
人生とか関わってくる」
がないと、ストーリーにならない、
ということなのだ。
たとえばなんでもいいけど、
この試合に勝たないと人質の両親が殺される、
この試合に勝って告白、
ホームランを打てば手術を受けるよ、
勝てないにしても最後まで立ってれば、
俺が俺である証明ができる、
などなどだ。
つまり、ドラマは人間の側にあって、
試合の中にはないんだよね。
だから僕はよく、
クライマックスではじゃんけんでも構わない、
といっている。
勝てばどうなるか、負ければどうなるかわかってて、
これをやればその結果が出てしまうことで、
主人公に感情移入してて、
これが勝てばストーリーの決着が全てつくことが出来てたら、
スポーツの試合でなくてもいいと思うんだよね。
そしてそれは、
主人公だけでなくて、
敵、ライバル、友人などに、
それぞれの事情があっていいんだよ。
この中で一人しか勝てない状況で、
決着がついた時に、
なんと世界は残酷か、
あるいは世界はなんとよく出来てるのか、
という満足感は、
別にスポーツである必然性がないんだよね。
だから、
スポーツ映画は難しい。
それでなければならない理由を、
どう創作するか?が、
難しいわけだ。
観客のエキストラが大変ならば、
無観客試合という手だってある。
じゃあ、スポーツによる決着でなくて、
じゃんけんや殴り合いでもいいよね、
ってなっちゃうんだよね。
実在の試合以外で、
どう動機を仕込むのか?
がとても難しいんだよね。
スポーツと人生をどう交錯させるか、
という作家の力量が問われるジャンルだと思う。
そうそう、以前某マイナースポーツの話を書きたいと思ったのだが、
「なんでプレイヤーそれぞれが、
それをわざわざやるのか?」に関する、
妥当な答えが人数分考えられなかったんだよね。
動機は人によって異なるべきで、
それは人生の様相に似ている。
2022年10月14日
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