人生というのは大概うまくいかない。
フィクションの物語のように華麗にいかないし、
劇的な大逆転もハッピーエンドもない。
そんな人たちがなぜか映画を見る。
二通りあると思う。
現実ではうまく行かないから、うまく行く映画を見る。
現実ではうまく行かないから、うまく行かない映画を見る。
前者と後者では、
見る目的が違うと思う。
後者から議論すると、
自分がうまく行かないのに、
他人がうまく行くとムカつくわけだ。
だから、俺より不幸になれ、と思うわけだ。
俺並みに不幸な奴がいる、
いいぞうまく行かないぞ、ざまあみろ、
そして俺より不幸な奴がいることを見て、
安心するわけだ。
俺はまだましだと。
安心するために、残酷な不幸を見る。
これはバッドエンドものや、ホラーや、
恐怖怪奇ものや、残酷ものなど、
ありとあらゆる不幸の詰め合わせのバラエティである。
ハロウィンは元々「死を思う祭り」である。
私たちはいずれ死ぬことを忘れてはならない、
メメントモリの宗教行事だ。
日本ではコスプレエロ祭りでしかないが、
死を思うから、ガイコツやゾンビや魔女などの、
生と反対なもののコスプレをするのである。
それは、
自分より下を見て、今の方がマシで、
もう少し良くすることができるのでは、
という安心が目的であるといえる。
昨今のハロウィンの意図的な流行らせ方は、
そうした真の意図を隠蔽して、
ただ単に形骸化した祭りにしたろという、
広告代理店の怪しげな匂いを感じる。
メメントモリでないハロウィンなど何の魂もないわ。
コミケのコスプレの魂を煎じて飲んどけ。
ということで、
人の不幸は蜜の味なので、
昔から残酷ショーは興行的に席をつくってきた。
だけどやっぱり後ろめたさがあるから、
正義の人は正義で、
悪の人がこのような不幸な人生、
のような役割転換をして、
悪役に不幸を背負わせるパターンに変形したわけだ。
悪役は、それまでは上手く行ってたのに、
主人公の登場とともにうまくいかなくなり、
そしてついに死ぬまで追い詰められる、
不幸の塊である。
主人公の活躍の裏の、悪役の転落ぶりを見て、
人は正義に酔う快感と、
自分よりうまく行かない悪役を見て、
ざまあみろと思うわけだ。
どちらでもいい。
主人公サイドで不幸を語ってもいいし、
悪役サイドでやってもいい。
あるいは第三の脇役でもいいよ。
人にはそのような傾向があり、
それを見たいのは本能であるから、
それは魅力的にうつるのである。
どんな人間にもその残虐さは潜む。
それをどう言い訳させて引き出すかも、
ストーリーテラーの仕事と言える。
より難しいのは、
自分がうまく行ってないくせに、
主人公がうまく行く方のパターンである。
なにしろ冷めさせてはいけないからだ。
こいつは上手くいってるけど、
俺の人生はうまく行ってない、と思わせた瞬間、
冷められてしまう。
熱中させなければならない。
そこで、上の話が伏線となって生きるのだ。
主人公を、どん底に落とせばいいわけだ。
俺よりうまく行かない、不幸の沼に沈めるのである。
それは冒頭の転落でもいいし、
途中の敗北ポイントでもいい。
それで観客の残虐さを満足させるわけだ。
だが、
その後の大逆転はなかなかに難しい。
リアル人生がうまく行ってない作者が、
そんなにうまく行く方法を、
リアリティあふれるように、
新しく編み出せるか?
という問いだからだ。
でもここがリアルとフィクションの違うところで、
リアルなら不可能なことでも、
フィクションならばできるのだよ。
「ただしこのような条件付きだが」
という状態でね。
それがあまりにもご都合主義、
たとえば「主人公は実は流浪の王子で、
金に困っていたと思いきやその王家とつながって大金を得る」
なんて「成功」は、馬鹿馬鹿しく感じるだろう。
そうではなくて、
ほんとうにありそうで、
少しだけ嘘が混じってる塩梅で、
成功していく話こそが、
最も求められていることである。
そうか、その主人公だからその不幸を乗り越えられたのか、
俺もその能力があれば行けるかなあ、
なんて夢想してくれれば成功だ。
不幸な状態で、
俺よりも不幸だと思っている主人公が、
それでも己の力で成功すれば、
羨ましくなる反面、勇気づけられるわけだ。
その成功の仕方を、
ぎりぎりできるレベルにしておくのが、
一番いい塩梅だということ。
不幸を成功に変えるわけだから、
その主人公は超人的能力がありがちだ。
しかしそれではあまりにも観客と遠い。
だから、内面的弱点を持たせるのである。
それならば観客の多くと共通するからである。
内面的弱点のない人はいないからだ。
その内面の克服のストーリーがよくできていればいるほど、
精神治療のような効果を観客は感じるだろう。
その主人公のがんばりは、
私そのもののがんばりと重なるからだ。
このようなメカニズムで、
フィクションの主人公は、
人生がうまく行ってない観客の、
見るべきものになるわけだ。
つまり必要なことは二つある。
人生がうまく行ってない観客が、
俺より不幸だぜと思う境遇や状況。
人生がうまく行ってない観客が、
自分を重ね合わせられる内面の克服。
なぜフィクションを書くことが難しいかの答え
(のひとつ)がこれだ。
この二つをリアリティがあり、
ご都合主義に陥らないようにして、
なおかつパクリをせず、
新作として作ることが、
難しいからである。
逆に、そこをうまくつくれたら、
ディテールはなんでもよくて、
ストーリーの芯になるに違いない。
人生がうまく行ってるやつは、映画なんて見ないよ。
そんな暇ないもの。
物語は、うまく行ってない人のなぐさみものだと思うと、
嘘くさい話を書くことがいかに間違ってるかがわかる。
受ける受けないだけでなく、
その人たちのためにならないよね。
2022年11月01日
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