2022年11月01日

うまくいかない時

人生というのは大概うまくいかない。
フィクションの物語のように華麗にいかないし、
劇的な大逆転もハッピーエンドもない。

そんな人たちがなぜか映画を見る。
二通りあると思う。
現実ではうまく行かないから、うまく行く映画を見る。
現実ではうまく行かないから、うまく行かない映画を見る。


前者と後者では、
見る目的が違うと思う。

後者から議論すると、
自分がうまく行かないのに、
他人がうまく行くとムカつくわけだ。
だから、俺より不幸になれ、と思うわけだ。

俺並みに不幸な奴がいる、
いいぞうまく行かないぞ、ざまあみろ、
そして俺より不幸な奴がいることを見て、
安心するわけだ。
俺はまだましだと。

安心するために、残酷な不幸を見る。

これはバッドエンドものや、ホラーや、
恐怖怪奇ものや、残酷ものなど、
ありとあらゆる不幸の詰め合わせのバラエティである。

ハロウィンは元々「死を思う祭り」である。
私たちはいずれ死ぬことを忘れてはならない、
メメントモリの宗教行事だ。
日本ではコスプレエロ祭りでしかないが、
死を思うから、ガイコツやゾンビや魔女などの、
生と反対なもののコスプレをするのである。

それは、
自分より下を見て、今の方がマシで、
もう少し良くすることができるのでは、
という安心が目的であるといえる。

昨今のハロウィンの意図的な流行らせ方は、
そうした真の意図を隠蔽して、
ただ単に形骸化した祭りにしたろという、
広告代理店の怪しげな匂いを感じる。
メメントモリでないハロウィンなど何の魂もないわ。
コミケのコスプレの魂を煎じて飲んどけ。


ということで、
人の不幸は蜜の味なので、
昔から残酷ショーは興行的に席をつくってきた。

だけどやっぱり後ろめたさがあるから、
正義の人は正義で、
悪の人がこのような不幸な人生、
のような役割転換をして、
悪役に不幸を背負わせるパターンに変形したわけだ。

悪役は、それまでは上手く行ってたのに、
主人公の登場とともにうまくいかなくなり、
そしてついに死ぬまで追い詰められる、
不幸の塊である。
主人公の活躍の裏の、悪役の転落ぶりを見て、
人は正義に酔う快感と、
自分よりうまく行かない悪役を見て、
ざまあみろと思うわけだ。


どちらでもいい。
主人公サイドで不幸を語ってもいいし、
悪役サイドでやってもいい。
あるいは第三の脇役でもいいよ。

人にはそのような傾向があり、
それを見たいのは本能であるから、
それは魅力的にうつるのである。
どんな人間にもその残虐さは潜む。
それをどう言い訳させて引き出すかも、
ストーリーテラーの仕事と言える。


より難しいのは、
自分がうまく行ってないくせに、
主人公がうまく行く方のパターンである。
なにしろ冷めさせてはいけないからだ。
こいつは上手くいってるけど、
俺の人生はうまく行ってない、と思わせた瞬間、
冷められてしまう。

熱中させなければならない。

そこで、上の話が伏線となって生きるのだ。
主人公を、どん底に落とせばいいわけだ。
俺よりうまく行かない、不幸の沼に沈めるのである。

それは冒頭の転落でもいいし、
途中の敗北ポイントでもいい。
それで観客の残虐さを満足させるわけだ。

だが、
その後の大逆転はなかなかに難しい。
リアル人生がうまく行ってない作者が、
そんなにうまく行く方法を、
リアリティあふれるように、
新しく編み出せるか?
という問いだからだ。

でもここがリアルとフィクションの違うところで、
リアルなら不可能なことでも、
フィクションならばできるのだよ。
「ただしこのような条件付きだが」
という状態でね。

それがあまりにもご都合主義、
たとえば「主人公は実は流浪の王子で、
金に困っていたと思いきやその王家とつながって大金を得る」
なんて「成功」は、馬鹿馬鹿しく感じるだろう。
そうではなくて、
ほんとうにありそうで、
少しだけ嘘が混じってる塩梅で、
成功していく話こそが、
最も求められていることである。

そうか、その主人公だからその不幸を乗り越えられたのか、
俺もその能力があれば行けるかなあ、
なんて夢想してくれれば成功だ。

不幸な状態で、
俺よりも不幸だと思っている主人公が、
それでも己の力で成功すれば、
羨ましくなる反面、勇気づけられるわけだ。

その成功の仕方を、
ぎりぎりできるレベルにしておくのが、
一番いい塩梅だということ。


不幸を成功に変えるわけだから、
その主人公は超人的能力がありがちだ。
しかしそれではあまりにも観客と遠い。
だから、内面的弱点を持たせるのである。
それならば観客の多くと共通するからである。
内面的弱点のない人はいないからだ。

その内面の克服のストーリーがよくできていればいるほど、
精神治療のような効果を観客は感じるだろう。
その主人公のがんばりは、
私そのもののがんばりと重なるからだ。


このようなメカニズムで、
フィクションの主人公は、
人生がうまく行ってない観客の、
見るべきものになるわけだ。



つまり必要なことは二つある。

人生がうまく行ってない観客が、
俺より不幸だぜと思う境遇や状況。
人生がうまく行ってない観客が、
自分を重ね合わせられる内面の克服。

なぜフィクションを書くことが難しいかの答え
(のひとつ)がこれだ。
この二つをリアリティがあり、
ご都合主義に陥らないようにして、
なおかつパクリをせず、
新作として作ることが、
難しいからである。


逆に、そこをうまくつくれたら、
ディテールはなんでもよくて、
ストーリーの芯になるに違いない。


人生がうまく行ってるやつは、映画なんて見ないよ。
そんな暇ないもの。

物語は、うまく行ってない人のなぐさみものだと思うと、
嘘くさい話を書くことがいかに間違ってるかがわかる。

受ける受けないだけでなく、
その人たちのためにならないよね。
posted by おおおかとしひこ at 01:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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